先に岐阜県多治見市にあるとうしん(東濃信用金庫)の美術館を訪ねた話をしたですが、地場の信金であるたましん(多摩信用金庫)が手掛けている「たましん美術館」ではどんな企画展をやっていたのだったか…と、出かけた次第。「五美大版画教員展 版の実験場~プリントアートの現在地~」という展示が開催中(12/24まで)なのでありました。

 

 

ここに言う「五美大」とは、東京にある5つの美大をひとまとめにした言い方らしい。多分に受験生を意識して使われるようになった日東駒専とか関関同立とか、はたまたMARCHとか、そういった類いでもありましょうかね。要するに、女子美術大学多摩美術大学、東京造形大学、日本大学藝術学部、武蔵野美術大学をひっくるめた言い方のようで(ちなみに大学名は五十音順、他意はありません)。

 

ともあれ、それらの大学の版画系(?)教員の作品を集めた展覧会ということですが、「版の実験場」とはよく言ったもので、これまで「版画、ふぅ~ん」と思っていたところが「版画、ほお~!」となった。こぢんまりと興味深い展示が行われておりましたですよ。

 

五大学といいますから五人の作家の作品が並ぶ…かと思えば、開催中に1期、2期と展示替えを行ってきた最後の3期を覗いてみますと、3大学4名の作家・教員の作品展示。まあ、そもそも五美大にこだわりがあるわけではありませんので、中身の興味深さに変わりなしということで取り敢えず。

 

 

会場内は写真撮影可でしたので「それでは遠慮なく!」…と言っても、これは予想外でしたので携帯で撮っただけですけれどね。展示は、4名の作家それぞれにまず展示に寄せた作家ご本人のコメントから始まりますが、最初の方はこのようなことを。

写真は〈単眼のレンズ〉で捉えられた対象世界を〈スクリーン〉に投影し、それを定着する。…しかし、そもそも人間は両目で絶えず動き続けながら対象を捉え、視覚だけでなく五感を総動員しながらそれに向き合っているのに、単眼の固定化された視点で捉えられた不自然な世界が私たちの日常を覆ってしまっていることの息苦しさに私の問題意識がある。

え?版画展でやおら写真の話?と思い、大島成己という作家の肩書を見返してしまいましたですが、確かに「多摩美術大学美術学部絵画学科版画専攻・教授」と、版画の人ということになるようで。展覧会タイトルの中に「プリントアート」という言葉も出てきますので、昔のフィルム・カメラで現像して焼き付けることを考えると版画の刷りに似ていないこともない。そっかあ、写真は(その作品の複製性において)版画とも言えてしまうかあと思ったり。

 

 

と、作品のほどはこの写真では分かりにくかろうと思いますが、極端にピントが合ったところとそうでないところがいっぺんに目に飛び込んでくるといったらいいでしょうか。普段、ヒトが目を通じて見ている(と思っている)景観は必ずしもありのままでなくして、脳が「こうであろう」という形に補正しているのですよね。その補正機能が錯誤を起こすといわば「錯覚」を覚えることになるわけで。

 

自分に「見えている」と思うものがそのままありのままであるのかを疑う見方とでもいいますか、そうしたものがあってもいいのかもしれませんですね。と、こういうことをこの作者が言いたかったのではないかもしれませんが…。

版画は、直接描く油絵などとは違い、版という外在的な要素の介入によって成立してしまう表現方法である。版への転写によって生み出されるイメージの特質や、インクを圧縮してできる図像や版の痕跡等、間接的にイメージと物質との関係を模索することができる。彫り、摺りという工程の中で、さまざまなファクター、すこしの条件の違いで、その様相を変化させてしまう不確定さも含んでいる。

続いて、こんなコメントを寄せていた多摩美術大学美術学部絵画学科版画専攻・教授の古谷博子の作品でありまして、こちらは一見して「ああ、版画だ」と安心感?さえ抱くような。

 

 

先に版画の複製性にちらり触れましたですが、上のコメントで見たように「すこしの条件の違いで、その様相を変化させてしまう不確定さ」があることに思いを致しますと、実は版画には摺られる一枚ごとに何かしらどこかしらの違い、個性が存在する、つまりは一枚として同じものは無いのではないかと思えてきたりするのですよね。ひと口に「印刷」と言ってしまってよいかは分かりませんですが、そもそも同じものを大量に作り出せるのが印刷であるところながら、実は…と、ごくごく日常的な思いに揺らぎを感じさせられた次第でありますよ。と、これも作者の意図するところに沿ってはいないのでしょうけれど…。

今回の展示では、私自身が長年使用してきた工具やリサイクルショップで見つけた古びた工具を版にして制作している。様々な用途で使用されてきた工具には、携わった人の痕跡や経年劣化の跡が刻まれている。その趣には人と対峙するかのような不思議な感覚があった。

…とは、女子美術大学芸術学部美術学科洋画専攻版画コース・准教授の阿部大介接のコメントですけれど、ともあれ作品はこんなふうでありました。

 

 

ぱっと見では浜辺に打ち上げられた海藻類を乾燥させたもの…てなふうに思えてしまいまして、でもやっぱりそれぞれにバールであったり、レンチであったり、ちりとりであったりが元の姿であろうとは分かってくる。これっていったいどうやって作ったのであるかな?と思いましたら、種明かし?は隣の壁面に。

 

 

対象物に何かしら樹脂のようなものを塗って、乾いたら剥がす…という手法であるようす。それは版があって写し取る点では版画に類するものとは言えましょうか。さりながら、これまで版画を見る中では作品から直接的なメッセージとして「時の流れ」を受け取ることはおよそ無かったような。ひとつひとつの対象物が単に置いてあるだけでは想像するに至らない「時の流れ」を、あたかも日干しのするめのようなものを目の当たりにするとじわじわと感じてしまうとは、何とも不思議なことではなかろうかと思うところです。

 

でもって最後には、武蔵野美術大学造形学部油絵学科グラフィックアーツ専攻・教授の高浜利也が紹介されておりました。なんでも銅版画を刷り取った石膏キューブをひたすらに積み上げていくというインスタレーションの制作を北海道の根室で継続中ということで。

 

 

…結果的に石膏キューブを積み上げるという行為が純化されるほどに、自分たちがやろうとしていることの本質が露わになってきた気がしている。石膏キューブは年代の古い順から劣化が進み、刷り取られた銅版画はこのまま朽ち続け、いつか全体が崩壊するだろう。…それでも…地面に転がってでも、ずっとそこに在り続けるにちがいない。1000年先のその風景を夢見ながら今もなお、つくる、くちる、つくる、を繰り返している。

 

石膏キューブに銅版画を転写しているという点で版画作品に類するものとは思うところながら、これまた「もはやこれは…」の印象が。今さらながら、フライヤーにある「『版画』は幅広くジャンルを横断しながら、その概念を拡張させ続けています」という一文が大いに首肯できたような次第。なんとなく出かけた展覧会でしたですが、思いのほか刺激的であったなと思いったものでありました。