東京・立川市にあるたましん美術館(国立市にあるたましん歴史・美術館とは別施設)を覗いてみたのでありますよ。クールシェアではありませんが、この時季にはこうした施設内にいるのが何といっても涼しくて…とは本末転倒な利用実態になってしまいますな。ともあれ、「武蔵総社の宝物、来る」として大國魂神社宝物展が開催中でありました。

 

 

東京・府中市、というよりも武蔵府中にある大國魂神社は、比較的近隣でもありますので何度か立ち寄っておりまして、一昨年でしたか、武蔵府中国衙跡などを訪ね歩いた際にも境内のひとおりは巡ったものでありました。が、境内の片隅に宝物殿があることは知り及ぶも、平日には閉館しているということで、立ち寄れず仕舞いだったのですなあ。府中のお社の宝物を立川の美術館で、とはずいぶんと近くで開催するものだとは思いましたですが、会期中はいつでも見られるというのが立ち寄りやすいということはありましょうね。

 

で、その宝物とやらですけれど、「長い歴史の中で、同社には為政者から地元の有志にいたるまで様々な人物より貴重な品々が寄進されてき」たようでして、その貴重な品々を展示するというのが本展の趣旨なわけですが、個人的には宝物そのものよりも展示解説に示された大國魂神社にまつわるさまざまなエピソードといいますか、そちらの方が興味深かったですなあ。

 

もちろん、徳川家康が社領五百石を寄進すると記した「寄進状」(五百石を社領として持つのは数少ないのであると)とか、幕府の命を受けて社殿造営に尽力した久世大和守広之が舶来物の珍奇な品々を奉納しているとか、そのあたりにも興味は湧きましたけれど。舶来物であることが「寄進目録」に書かれてある「美以登呂鏡」や「加志和利卵香合」あたりは特に。

 

前者は美以登呂(びいどろ)の鏡、すなわちガラスの裏に水銀を塗って作ったもので、古来使われてきた金属面をピッカピカに研磨して作る鏡よりも格段にクリアな映像が現れるものですな。後者はカシワ鳥(別名、火喰鳥とも)というダチョウに近い鳥の卵(ダチョウほどではないですがわりと大きい)を縦長部分で真っ二つにし、内側に蒔絵装飾を施したという一品でして、その昔ヨーロッパ貴族がせっせと作り上げたヴンダーカンマーにでもありそうな。

 

ただ、メインと思しき展示が「神社に伝わる名刀」であって、展示のされようもいささか厳かとでも申しましょうか、体裁ぶってる感もありますが、個人的に刀剣の類いは要するに人斬り包丁でしょう…というところから愛でる気にはなれないものでして。さりながら、こうした寄進物があるということもまた、古くから東国武士(ひいては徳川家康、さらにその後の幕府に至るまで)の尊崇が集まっていたこというなのでしょうねえ。

 

確かに古く律令時代の昔から大事にされたお社ながら、武蔵総社の「総社」という扱いはとにもかくにも国府の近くであったからということでもあろうかと。中央から派遣されてきた地方官はその土地で大切にされている数々のお社を巡察して歩かねばならないところ、「面倒だから一カ所にまとめてしまえ」と一カ所参拝で済ませる便宜から「総社」が生まれたてなことになりますとね(もちろん武蔵国だけに限った話ではありませんが)。

 

とまれ、総社としてステイタスを高めた大國魂神社に、東国武士たちの眼を釘付けにしたのが源頼義・義家父子であったかもです。情勢不穏の奥州に向かう際(即ち前九年の役ですな)、大國魂神社で戦勝祈願をして、戦いの地である北方を見守ってもらうため社殿を北向きにした…とは思わず眉に唾を付けてしまいそうですが、戦勝なって帰還の際には今の一部が残る参道のケヤキ並木を寄進したのも、頼義・義家父子であったとか。ほぉ~と思ったりしたものです。

 

と、このあたりは展示解説を思い出しつつ書いておりますけれど、その後も(同社HPによれば)こうした来歴を知ってのことと思いますが、源頼朝が政子の安産祈願を行ったりもしているようです。

 

ところで、展示の一番最初に江戸初期の正保年間(1644~1648)に作成されたという「武蔵国絵図」(展示は複製)が掲げられてありました。これを見ますと、お江戸の中心から武蔵府中を抜ける甲州街道沿いには点々と集落やら田畑やらが描き込まれているのですけれど、今の西武新宿線の経路で田無以西がまったくの空白地帯になっているのですなあ。この点、玉川上水が完成をみるのが承応二年(1653年)であったことを思い起こしますと、その直前の絵図で空白地とされていたところが、ようやくに水利を得て新田開墾が一気に進んだのであろうなあ…てなことを想像してみたり。

 

てなふうに、どうも宝物自体に目を向けるのと違うところで思い巡らしをしてしまいましたが、まあ、それもまた楽しからずやでありましたですよ。