さてと、晴れて5日間のインフルエンザ外出自粛期間が開けました。少々スロースタートの動き出しということで、近所の美術館へ。JR中央線国立駅前にある「たましん歴史・美術館」でして、立川駅に方にある「たましん美術館」とは別ものになります。

 

そもインフルエンザという藪から棒の横やりが入らなければ、岡山へ備前焼の里を訪ねに出かけていた…とは前にも触れたとおりでして。で、この六古窯のひとつに数えられる備前窯に出かけようと背中を押したのが、たましん歴史・美術館の前回展「東洋古陶磁展 やきもの超入門編」であったのですな。

 

展示を見た段階では、意匠に富んだ磁器よりも土っぽさの残る肌に自然釉が浮かび出ている陶器に惹かれるものですから、訪ねるは越前窯か備前窯か…などと思い巡らすも、まずは訪ねやすい備前へと目論んだわけですが、すっかり皮算用になってしまい…。もちろん他日を期してはおりますが、それはそれとして、そんなあれこれを思い出しつつ出向いたたましん歴史・美術館では、4月からは新たに「たましん蔵出しコレクション展 工芸×絵画」が始まっておりましたですよ。

 

 

フライヤーはちょうど両A面といった形で、2枚並べてみると上の画像のような具合になるのですな。工芸と絵画、どちらが主と言うわけでなしに、収蔵品の蔵出し展という次第。工芸の方は(フライヤーにもフィーチャーされているように)漆芸作品が多くあって、このあたりには個人的鑑識眼(といってものがあるのかどうか、ではありますが)が及ばぬところでして、結局はやきものの方に目を向けてしまうのですなあ。ただ、世の中的には磁器の注目度が高いようで、どうも陶器はいささか分が悪いような(個人的感想です)。ま、それだけにへそ曲がり、天邪鬼な性質としては肩入れするのかも(笑)。

 

今回展でも二点並びでひとつのガラスケースに入れられた陶芸作品がもっともその場を離れがたいものであったわけですが、そのひとつは竹村嘉造作の「自然釉叩き壺」でして、作家は信楽の系譜に繋がる陶工であるようす。どっしりとした土肌に現れた自然釉がいいですよねえ。こういうふうに作ろうとして作れるものではない、作者にとっても窯から出してみないと分からない、かといってひたすらに自然の造形というわけでもないところに何とも言えぬ味わいがありますなあ。

 

で、お隣に展示された太田和明作の「彩文白金彩壺」の方は古風な壺の形の上に、非常に現代的な意匠が施してあるもの。軽やかなリズムを刻んで繰り返されるモチーフは見ていて飽きない、つまりは「これ、欲しい!」といった品でありましたよ。まあ、飾る床の間も無いですけれどね(笑)。

 

一方、絵画の方はと言いますれば、こう言ってはなんですが誰一人としてその名を知らない作家たちの作品ながら、いくつかはやはり何度も矯めつ眇めつしてしまうような作品でありましたですよ。まず、目を止めたのは野村千春の「小さな沼」という作品ですけれど、「この厚塗りは?!」」と驚いてしまうわけです。

 

長野県岡谷市出身ということで、郷土の画家として作品を収蔵する市立岡谷美術考古館HPには「キャンバス一面に絵の具を塗り重ね、力強い筆致と重厚な色彩で大地や花を描き続けた」てな紹介がありましたですが、展示作品にはガラスが嵌っていない分、絵肌を直接的に眺められて、そのごつごつ感に「なるほど」と思ったものです。

 

山間に広がる鬱蒼とした森を見下ろして、木の間隠れに水面を見せて点在する沼が描かれて、単純には森が地面の茶色と思しき色合いで描かれるもこれが「そうそう、こういう見え方、あるよね」と思わせるのですよね。また、厚塗りの立体感が即ち森の立体感にもつながっているという。これを、いわゆる写実的とは言わないでしょうけれど、見方によってはとてもリアルな写し取り方とも言えるように思えたのですなあ。

 

必ずしも写実的(それこそ写真のように写しとる)ではないものの、見る側としてリアル感を抱くという点では張替眞宏の「樹と光の中で-石柱と少女-」もまた。昔々に見た「スーパーリアリズム展」でも、まさに文字通りのスーパーリアリズムの絵画が誕生する前哨の一プロセス的に、似た画風があったやに思いますが、光によって輪郭線をとばすような描き方はやはり古来目指されてきた写実の到達点ではないものの、目にはそのように見えるのだとも言えましょうかね。

 

とまれ、春になって「行動開始!」となったときにインフルエンザで出鼻を挫かれたところはありますが、今回展のように有名どころであるかどうかに関わらず、刺激的なアート作品はあるものですので、この後はいよいよもって「行動開始!」と行きたいものだと思ったものなのでありました。