実は長崎のお話もいまだ終わってはおらず…。こちらも引き続きということでお願いいたします(笑)。

 

で、長崎と言えば(のひとつとして)出島を挙げることができようかと。ただ、かなり前に一度長崎を訪ねた際にも(当然)行っているわけで、今回は「どうしようかな…」と。それでも「出島~dejima~」という公式サイトを覗いてみますと、復元整備事業は相も変わらず進行中であるようす。どうも以前立ち寄ったときよりも圧倒的に建物が増えている印象であったものですから、夕刻からさくっと見た覚えの無い建物を中心にめぐって見るかということに(出島の観覧自体は8:00~21:00ということです)。

 

 

今ではこの表門橋を通って出島に出入りするのですが、かつて訪ねた折には反対側の隅っこから入場したような気がしておりますよ。このあたりじゃなかったかと思うのですよね。どうやらスタッフ専用入口と化して、「出島へのご来場は出島表門橋をご利用ください」と案内が出ている状態に。

 

 

ちなみにすぐ奥に見えている建物は「旧出島神学校」であると。明治11年(1878年)に建てられた建物(の復元)ですけれど、内部では「出島復元整備事業」に関するビデオ映像が流されておりましたよ。事業に関わる関係者の話からは、復元の難しさというか、もどかしさというか、そのあたりににじみ出るものがありましたなあ。

 

例えば、縄文時代の三内丸山遺跡、弥生時代の登呂遺跡などは、もちろん時代が古いだけにわからないことが多いとはいえ、どんなふうに再現しようかという点ではそれぞれの時代の様相に鑑みて決まってくるのだと思います。さりながら、出島の場合には寛永十三年(1636年)に築造され、明治37年(1904年)に長崎港の港湾整備で姿を消すまで270年ほどの間(縄文時代に比べれば圧倒的に短い期間ながら)ずっと同じ建物が建っていたわけではありませんですね。「出島」公式のサイトにも復元建物は、鎖国期、幕末、明治期と分けて紹介されておりますが、現在の状況は時代背景が混在した状態になっているわけです。ここにもどかしさがあるのですよね。

 

 

ここでは中央の通路を挟んで、左手には完全に木造の建物、右手には石造りの建物が見えています。先に見た旧出島神学校は明治期の洋館風ですし、ばらばら感はありますが、どれもこれもその時々の出島の姿でもあるわけで。もちろん、こうした方がいい…といった考えを持ち合わせてはおりませんですが、悩ましさは十分に伝わってきますですな。とまあ、そんなふうな復元出島なのですけれど、往時の再現にあたってかなり力を入れたと(先のビデオから)思われる「カピタン部屋」なる建物を覗いてみることに。

 

 

「カピタン部屋」というのはオランダ商館長の事務所兼住居であった建物ということでして、木造瓦葺の純和風ながら、中央入口に設けられた三角屋根とバルコニーが異国情緒を漂わせておるような。基本的に1階部分は倉庫として使われたということですので、三角屋根のところにある階段を昇って2階へと進みます。

 

 

 

今でいえば、オランダ大使館がここにあるようなものでしょうから、どの部屋も豪華な設えになっておりますね。和風に畳敷きではあるものの、家具調度などはオランダ側が自前で持ち込んだものでありましょう。当時のオランダ東インド会社の勢いが偲ばれるというものです。で、このようすを再現するにあたってはまた苦労があったようですな。それらしい時期の、それらしいものを揃えなくてはなりませんのでね。一方で、部屋ごとに異なる壁紙が貼られておりますが、これは日本側の仕事ですな。当時の職人技が発揮された賜物なのでしょう(と、それを再現するのもまた職人技で)。

 

 

ところでこちらは、カピタン部屋と同じく2006年に復元が完了したという「三番蔵」という建物で、中には麻袋が積んでありますけれど、これは「砂糖蔵」を再現しているのであると。説明書きにはこんなふうに。

砂糖は、出島の主要な輸入品の一つでした。おもにインドネシアのジャワ島の砂糖農園で作られ、オランダ船で日本に運ばれるときには、船の底荷の役割も果たしました。白砂糖や氷砂糖、黒砂糖がありますが、とくに白砂糖はその品質が上、中、下に分けられます。…砂糖は本方商品として売りさばかれるだけではなく、遊女や日本人役人に、そして江戸参府時の旅先でも、贈答品としました。

砂糖といえば江戸期には貴重品であったからこそ贈答品にされたわけですが、荷揚げの地元である長崎では比較的手に入りやすくなっていたようですね。『長崎奉行の歴史』の中には、こんな一節があったのでして。

…長崎固有の都市下層労働層の労働慣行上の権利に、運搬中の箱や袋などからこぼれ落ちた砂糖は労働者の取り分となる「こぼれ砂糖」の問題がある。十八世紀後半になると、こぼれ砂糖は、都市の人々を維持するために機能し、こぼれ砂糖そのものの取引がおこなわれ流通経路が確立されており、天明三年には、こぼれ砂糖を取り扱う仲買商人が八十二名にものぼっている。

まさに「おこぼれにあずかる」状況ですが、暗黙の了解事項ながら幕府の統制が厳しくなるとあたかも窃盗扱いされたりすることにも。とはいえ、かような流通経路もできた長崎には比較的砂糖が潤沢であって、カステラなどの菓子作りが伝統となり、また料理にも甘いものが多いのであるそうな。

 

またしても稲佐山夜景ツアーのバスガイドさんの受け売りになりますけれど、「長崎では醤油も甘い」のであると。ほんとかいねと思ったものの、居酒屋で刺身を食際も寿司屋に入ったときにも、卓に置かれた醤油さしから注ぐ醤油は確かに甘かった!関東者としては「ひょええ!」ともなりましたが、慣れるものですねえ(笑)。

 

ということで、夕刻からふらりと訪ねた出島は(21時まで観覧可とはいえ)暮れなずむ頃合いとなって引き上げることに。昔々は真っ暗状態だったでしょうけれどね。