静岡市の登呂遺跡を訪ねたお話で引っ張ってしまっていますけれど、登呂博物館の展示解説を思い返しながらもうひと巡り、遺跡の中を歩き回ってみたのでありますよ。ちなみに博物館の屋上から遺跡を見晴らしますとこんな感じです。

 

 

奥に竪穴住居や高床倉庫が並び、手前側はことごとく水田だったようす。一部は再現されて水路も設けられておりますな。

 

 

ちなみに博物館の展示解説に曰く「彌生時代の水田稲作では、水稲である温帯ジャポニカのイネに加えて、陸稲とされる熱帯ジャポニカのイネも栽培されていたと考えられています」と。稲作といえば弥生時代と思うところながら、近頃では縄文時代にも陸稲栽培が行われていたらしき痕跡が見つかっていますですね。が、収穫高やおいしさ、また栽培の際に路地植えでは雑草が蔓延って手間がかかるなどなどの点から、水稲優位となっていったようで。感慨用水などの設備の進歩も寄与しておりましょうね。

 

ところで再現住居の方に近寄って行きますと、建物の形としては見慣れた竪穴住居ではあるのですけれど、少々異なことに気付くところではなかろうかと。

 

 

竪穴住居はその名のとおり、平らな土地をたてにいくらか掘り下げたところを床として草葺きの屋根をかぶせるのが常套でしょうけれど、ここではわざわざ土台を高くした上に竪穴住居を作っているのですな。あたかも宅地造成を行ったかのようです。

 

 

博物館内にあった再現住居でもやはり盛土されていることが分かるところでして、これが登呂遺跡の住居の特徴ともなっておるようですね。展示解説にはこのようにあります。

登呂遺跡の住居は、地下水の水位が高かったため地面を掘らずに地表面に床をつくりました。床の周囲には屋外に杭、屋内には羽目板で囲った堤を小判形に巡らせ、構造として竪穴住居と同じになるように建てていました。

つうことは掘っておらずにもともとの地面が床でその周りを盛り上げた結果、掘って作った竪穴住居のようにますに見えているということで、要するに「疑似竪穴住居建築」であったわけですなあ。なるほど中に入ってみれば、床の周囲には羽目板状の堤が目に止まりましたですよ。

 

 

登呂遺跡に至る道すがら、この場所が弥生人が住まう適地であるかのように言ってしまいましたですが、地下水が高いということは水が沁みだしやすいでしょうから、しめっぽい土地柄となると住まうには適当ではないような。ただ、稲作のための水利の点を優先したということになりますかね。

 

 

うわものの再現されていないところでは床に当たる部分に水たまりができているものもありまして、いいのかわるいのか、水との距離が至って近いことが偲ばれますですね。それだけに造成地(?)の周囲はむしろ溝を幾分深めに掘って、住居への水の侵入を回避したようでありますよ。

 

 

で、かように宅地造成した分譲住宅?の集会所にあたるのがこちらの大きな建物でしょうか。近くからは「占いに用いられた「卜骨」(ぼっこつ)が出土して」いるということで、「登呂ムラ全体の儀式(豊作などの祈願やその占いなど)や重要な話し合いなどに使われてもの」として「祭殿」と想定されているようです。

 

 

もちろんこれは再現建物ですけれど、後の神社建築(神明造というのでしたか)に見られる「千木」らしき装飾が屋根に施されているのは、弥生時代の「祭殿」がやがて神社につながる源流でもあろうかという想像でしょうかね、どうでしょうか(博物館で訊いてくればよかった…)。

 

とまれ、弥生時代の人たちはかような新興住宅地?でもって水と実りに恵まれた豊かな生活を送っていたのかもしれません。ここでの暮らしは弥生時代後期から古墳時代にも及ぶ期間であったということでありますよ。