スパリゾートハワイアンズから戻りの送迎バスは東京駅帰着が遅いといっても19時過ぎですので、そのまま帰宅できないではないものの、帰着翌日(6/18)にはまた池袋に出てくることになっておりましたので、まあ、楽して都心泊としてしまったわけでして(別に申し開きの必要はないのですけれど…笑)。

 

ともあれ、池袋に出かけたのは読響の演奏会があった故でして、これがために都心泊までして万全を期しておきながら、温泉疲れとでも申しますが、久々に演奏会で爆睡してしまいましたなあ。メインがチャイコフスキーの交響曲第5番と、いわば爆演系の曲目であるのにいやはやです。

 

 

ただ、今回の指揮者ケレム・ハサンは1992年生まれとまだまだ若いだけに、この曲を勢いのままにライブ感ある爆演に持ち込むかと思いきや、ところどころに制御感を感じたのは曲作りの個性だったのかも。どうしてもこの曲に関しては、ハンブルクのライス・ハレで聴いたエッシェンバッハ指揮によるマーラー・ユーゲント管の、文字通り(ユーゲントなだけに)の若さに任せた爆演の印象がなかなか上書きされないのですよねえ。ただ、聴きなれた曲でも個々の演奏に個性があって気付きがあるとは言えるわけですが。

 

ところで話は変わりますが、聴きなれた曲でも都度気付きがあったりするという点では、見慣れた絵でも都度都度また違う印象があったりもするものですよね。折しも、池袋に出向いて東京芸術劇場で向かう前、ちと時間つぶしに(ということは何かしら大きく期待するでなく)西武百貨店の催事場に立ち寄ったのですが、そこで見た「生誕120周年記念展 板画家 棟方志功の世界」で、そのような思いを抱いたりしていたものですから。

 

 

ちょいと前に八王子の美術館でミュシャ展を見た折、美術展によっては商業っぽさを感じることがあるてなことを申しましたが、今回の棟方志功展はまさに、ですな。何しろ百貨店の催事場ですものねえ。一点一点、絵のタイトルとともにはっきりと金額が示されておりまして、さりげなく色付きの丸いシールが金額に被さっているのは売約済みということでしょうかね。中には8桁に及ぶ値付けがなされたりしていて、「美術市場」というのが確かにあるのだなと改めて。(購入に)心動かされた人でしょうか、壁掛けでなくしてイーゼルに立てかけられた絵を係員ともども矯めつ眇めつしているようすも垣間見えましたし。

 

とまれ、そのあたりの金銭感覚とは隔たりが大きい者としましては、見て楽しみ、思い巡らすことに専念するわけですが、そこでいささか見慣れた棟方志功作品ながら、そうでのあったかも?…と思うところに行き当たったりもしたのでありますよ。何かと申しますれば、「わだばゴッホになる!」と言っていた志功ながら、1903年生まれですので20世紀初頭に百花繚乱であったアートシーンに全く無縁であったはずもなかったのだろうなと。なんとなれば、初期の作として展覧会の最初にあった作品(タイトルを失念したのは残念ながら)を一見するに、「これってシャガールでないの?」と思ったものでして。

 

上のポスターにあしらわれた作品ではあまりピンと来ないかもしれませんですが、そも白黒の世界である版画(志功の場合は木版へのこだわりから「板画」ですが)に彩色を施す最初期で、淡い青、淡い赤がところどころにべた塗りでなく置かれているさま、そして描かれた人物像もまた彫刻刀で刻んだ鋭さむき出しでない緩やかな曲線で構成されているあたり、いずれもシャガールっぽさを思い浮かべたものです。見て周るうち、全く別の作品の解説に、ピカソやシャガールにも影響されたような記載があって、「そうだろう、そうだろう」と。もっとも、あちこちで志功を見ながらもそんなふうに感じたのは初めてでしたけれど。

 

もひとつの思いつきは、超有名作である『二菩薩釈迦十大弟子』の連作を眺めているときに来ましたなあ。この作品もこれまで目にはしていたわけですが、同じ寸法の板材をそれぞれに目いっぱい使って彫り上げたようすがありありの作品群を見ているうちに「これはどうもバルラッハの彫刻のような…」と。

 

エルンスト・バルラッハの彫刻としては、ハンブルクのバルラッハハウスで見たあれこれよりもリューベックの聖カタリーネン教会の壁面を飾っていた数々の作品の方がより近さを想像できると思いますが、方や棟方志功は仏教、方やバルラッハはキリスト教ではて?とも思うところかと。

 

さりながら、仏教にしてもキリスト教にしても、宗教が人に関わる根本のところにある近似性とでも言いますか、個々の教義を超えた人との関わりを考えたときには結局のところ近しいところが出てくるのは不思議でもなんでもないような気も。そうしたことを感じていたかどうかまでは不詳ながら、志功は志功で『茶韻十二ヶ月』なる連作の中で「基督の柵」という一作をものしていたりするのですよね(本展でも展示されておりました)。

 

ということでとどのつまりは、聴き慣れた曲も見なれた絵も、向き合う当の本人が昨日まで(一瞬前まで?)の自分とは経た時間を経験した分だけ異なって、もはや不可逆的な自分であることからして、新たな印象があって当然ということを、此度もまた思い起こした次第でありましたよ。