都心よりも比較的近い八王子でやっているし、どうしよっかなあと思っていた展覧会。たまたまにもせよ、招待券が舞い込んできましたので「それならば…」と出かけてきた次第でありますよ。八王子市夢美術館で開催中であったのは「アルフォンス・ミュシャ展」でありましたよ。

 

 

招待券に釣られて出かけたということは、ネックは入場料?かと言えばさにあらず。都心部の展覧会に比べれば、一般800円とは実に財布に優しい限りですし。では一体何が?ですけれど、「ミュシャはもういいかな…」と。全くもって失礼なお話ですけれどね。

 

決してミュシャの絵が嫌いではありませんで、むしろ惹かれるところは今でもあると思っておりますが、要するにこの手のポスター展には些かなりとも(適当な言い方ではないかもしれませんが)商業主義っぽさが感じられてしまいまして。

 

かといって、展示即売会的なるものとは異なって「見ること」「鑑賞すること」そのものが中心となれば、いったいどこが商業的であるのかとも思い返すところですし、逆によおく考えてみますと、都心で開催される大規模展はいかに入場者数を集めるか(つまりは入場料収入、加えてグッズ販売収入なども含めて、いかに稼げるか)がポイントともなっているわけで、良くも悪くも展覧会というイベント自体が商業主義的というか、資本主義的というか。折しもついこの間、神奈川県立相模湖交流センター・アートギャラリーで見た展覧会には全くもってこれっぽっちも商業的な要素が無かったと言っていいでしょうし…。

 

そんなこんなの思い巡らしが逡巡のたねであったわけですが、これまた考えてみると別にミュシャが悪いわけでもありませんし、作成したポスターがかほどに時を超えて注目を集めるのはミュシャの手腕以外の何ものでもない。結局のところ、出かけていった展覧会場では「おお、ミュシャがいっぱいだぁ!」となったりもしますしねえ…。

 

 

 

 

 

 

と、いかにも!なミュシャの作品を並べてみました(タブローでないせいか、会場は撮影自由でして)ですが、これまで余り気に掛けていなかったところながら、ミュシャの描く女性像は何故か左を向いた横顔が多いですなあ。なんとはなし、小泉八雲が右向きばかりの肖像(自分のですけれどね)に拘ったことを思い出したり。もっとも、八雲のこだわりは不具合のある片目をかばうという意識でしょうから、ミュシャが描く横顔とは全く何の関わりもないところですし、ミュシャの絵には右向きや正面向きも無いわけではありませんし。

 

ところで、ポスター、ポスターと言ってますが、本展は端からポスター展と謳っているわけではありませんので、こんな習作(クレヨン書きによるデッサン)もありましたですよ。

 

 

やっぱり左向き!ということはともかくも、このデッサンを元にカラーリトグラフで作った実作がこちらだということで。

 

 

19世紀まで、特にフランスのアカデミスム絵画の潮流では、女性の裸体をいかに美しく描くかに注力してきたわけで、デッサン段階のミュシャもそのあたりをベースにしているのかと思うところですけれど、作り上げた作品はもシーツに覆われて、もはや裸婦像とも言いがたい。下卑た言い方になりますけれど、あからさまに見せるのではなくして、醸すエロスを求めたのかもしれませんですねえ。

 

ついでに少々、珍しいと思しきあたりを拾い出してみますと、『舞台衣装』という書籍に寄せた挿絵だそうですが、こんなのも描いていたのですなあ。ミュシャが、ということもありますけれど、日本題材の描きようとしても。

 

 

タイトルには「イザナミとサクマの衣装」とありますので、日本神話起源のお話を舞台化した際の衣装でしょうか。19世紀は世紀末に至るもジャポニスムは人気だったのでしょうけれど、この衣装はいったい?ギルバート&サリヴァンの『ミカド』に、日本人なら誰しも「えええ?」となる戸惑いに近いものがあるような気がしますですねえ。

 

 

こちらはやはり書籍の挿絵で、『ドイツ史の諸場面とエピソード』の中から「プレスブルクのマリア・テレジア」という一枚です。ここでいう「ドイツ史」はハプスブルク帝国からの流れも含めたものであるわけですが、ミュシャの故郷モラヴィアに近いプレスブルク(現在、スロバキアの首都であるブラティスラヴァのドイツ名)に支配者たるマリア・テレジアがやって来たところを描く…というのは、ミュシャにとってどんな心持ちだったのでしょうなあ。ミュシャが畢生の大作『スラヴ叙事詩』を手がけるようになるには、もう14年ほど先のことでですが…。ちなみに会場には『スラヴ叙事詩』が写真パネルで展示されておりましたですよ。

 

 

ということで、冒頭には何のかんのと言いましたけれど、今さらに思えたミュシャ展でも今さらながらの思い巡らしがあったりもする。まして、余りミュシャに接してこなかった方々にとってはミュシャの発見、あるいは美術との邂逅の場にもなっているのかもしれんなあと。たとえ商業主義的な宣伝やら、音声ガイドにタレントを起用したり、ここでしか買えません的グッズ販売やらも含めて、手段はともあれ、興味の掘り起こしをした結果として、思いがけずも?「美術鑑賞、いいね」に少しでもつながればという深謀遠慮(?)が働いているのかもとも。

 

ここまで考えてきて、先月のEテレ『100分de名著』で取り上げていたヘーゲルの『精神現象学』を思い出しておりましたよ。物事の良し悪しは相対的なもので、絶対的に「これはこうだ!」なんつうふうに思うのは、単なる「思いなし」に過ぎないのであると。反省することによって、「人」たることができたミュシャの展覧会なのでありました(ちと、大仰な締めくくりになりましたなあ、笑)。