彰義隊の話を扱った『合葬』を読もうとして手に取った『杉浦日向子全集第二巻』には赤穂事件に関わる話も併録されていたわけですが、さらにもう一つ『YASUJI東京』なる作品も。明治の画家・井上安治が描いた東京に思いを巡らすという一篇ですけれど、これは単独で以前読みましたので深くは触れずにおくとして、安治が師匠と仰いだ小林清親も描き込まれているのを見るに及んで、「そういえば読みたいと思っていた一冊があった」と俄かに思い出したのですな。
明治期に「光線画」と称される画風で、江戸から明治へと移り変わる町の姿を描き出した小林清親を主人公に据えた小説『東京新大橋雨中図』。タイトルもカバー絵も清親作品からそのままに持ってきたものでありますなあ(カバー絵はオリジナルの作品と左右反転している気がしますが…)。
ということで、弟子から師匠を思い出して読み始めたところながら、本編で安治が出てくるのは後の方であって、冒頭部はむしろ彰義隊の方と関係あるような始まりでしたなあ。何せ清親は小役人ながらも幕臣の家に生まれたお江戸の人であったわけで、弘化四年(1847年)生まれとなれば、維新を迎える頃には二十歳そこそこであったわけで、清親の周囲でも上野の山へと馳せ参じた者たちがいたようですしね。清親自身は(9人兄弟の末っ子ながら)小林家の家督を相続した跡取りになっていたこともあり、思いとどまったようですが。
ともあれ、明治新政府の世となって幕府の下級役人身過ぎ世過ぎに難渋することに。幕府が無くなった以上はお役御免の失業状態、そのまま江戸で暮らすには商売でも始めるか、町を離れて百姓になるか…、どうしたものかと言う中で清親は、辛うじて徳川の存続が許された地、「そうだ!駿府へ行こう!」という選択をするのでありますよ。
老母を連れて出かけた駿府までの道すがらも難儀でしたが、着いてみれば続々と参集してくる元幕府御家人たちの処遇を駿府藩では持て余しているような具合。結局のところ、母親を食わすが先決と浜名湖の鰻とりに携わったりする清親でありましたが、このとき多くの元幕臣を養う術とされたのが茶畑の開墾事業でしたですね。弱きを助ける任侠心でもってかの清水次郎長親分が大いに働いたとは、以前何かで読みましたっけ。
ただ、茶畑の開墾(これは後に静岡県に一大産業とはなりますが)は一朝一夕の事業ではありませんし、清親が携わった鰻とりも食うにかつかつの状態。いささかの紆余曲折を経て、ともかく何かしら稼ぐ手立てを考えると大きな町にこしたことはなしと、もはや「東京」とその名を改められた古巣へと帰っていくことにする清親なのでありました。で、ここからはようやく清親に天が味方をするようになりますな。
東京に戻ってまずは家探しですが、ここで二階部分を借り受けることになった住まいの一階は何と版画の彫り師が作業場にしていたという。同じ屋根の下で暮らすうちに彫り師家族と懇意となり、新橋ステンション(当時はそんな外来語が使われていたようで)近くの運送業者で荷捌きの仕事を世話してもらったりしつつ、版画に関わる仕事を日々近くで見ていたことが、かつて手すさびに自己流でやっていた絵を、再び描く気にさせることにもなったのでありましょう。
ふと暇を見つけて、清親は日に日に変わりゆく東京の姿を写生に出かけます。仕上がりを見た彫り師が感心し、版元に紹介すると、あれよあれよという間に絵師として立つ道が開けることになっていったという。偉ぶらない清親の性格が幸いし、また確かに才能もあったからでもありましょう、誰もが清親の世話をやいてくれるのですな。ここで得た人脈には河鍋暁斎やら月岡芳年やらもいたようで。弟子にしてほしいと頼みに来た井上安治も、元は芳年の門下にいたようですが、弟子の鞍替えを快く芳年は認めるのでありました。まあ、安治の画風からして清親に近いところはあっても、「血まみれ芳年」と馴染むものではなかったでしょうしね。
ともあれ、西洋画のようなとも言われた「光線画」が受けに受けて一躍有名になった清親ですが、これもやはり明治の速い流行り廃りに抗うことはできない。版元としても手間暇かかる多色木版よりも石版画に商売を移していく中で、光線画は発注は途絶えるものの、まだまだ清親には運が付いていたのですあ。藩閥の横行する明治の世を風刺する雑誌『團團珍聞(まるまるちんぶん)』から依頼を受けて、風刺画(ポンチ絵)を描くようになるわけで。
元々は「ポンチ絵」ばかばかしい戯れ絵と考えていた清親ながら、その精神の底には時局への風刺がある点に、元幕臣としては動かされるところがあったのでしょう、「清親ポンチ」とも言われるシリーズが誕生するのでありますよ。以前、練馬区立美術館で小林清親展を見た折、ずいぶんと滑稽な絵も描いていたのだな(清親といえば光線画だとばかり思っており)と感じたものですが、清親がこの方面に手を染めたことにようやっと合点がいった気がしたものでありました。
と、画家・小林清親の来歴をなぞってきましたですが、改めてこの一篇を小説として見たときに清親描くところの絵画作品と相乗効果で情感が沸き立つようなところがあったことに、とても惹かれたものでありますよ。章立てには清親作品の題から採ってそれぞれ『新橋ステンション夕景』、『東京新大橋雨中図』、『根津神社秋色』、『浅草寺年之市』と付けられ、作品の制作過程とそこに描かれた題材に関わる話がしみじみと、あたかも連作短編のように展開するという。
先日、『黒牢城』を読んで直木賞受賞作だけに「よく出来た話だ」と感じたところでして、物語性でというか、物語の構築で勝負するのが現代風の直木賞なのかなとも思ったものですけれど、一方でこの『東京新大橋雨中図』もやはり直木賞受賞作でしたな。こちらの方はかつて大衆小説はこんなだった…かも、という言わば昔ながらの直木賞とも言えそうかと。それこそ流行りもありましょうから、どちらがどうとは言い難いですが、個人的には後者の方が心に染み入る、記憶の残るものであるな気がしたものでありますよ。