先日は直木賞受賞作『黒牢城』に物語作りの妙味を見出したわけですけれど、「小説にもいろいろあるなあ」と今さらながらに思い至りましたのは芥川賞受賞者である小川洋子の短編集『掌に眠る舞台』に触れた率直なところでして。あれも小説、これも小説なのですなあ。

 

 

極めてざっくり言ってしまいますと、先の『黒牢城』に類いするものはきちんきちんと物語が進められ、最後には一定の解決、結末に至るのに対して、こちらの方は語られる話自体、これがいわゆる「物語」であるかと思えなくもありませんし、話が進んでいって(果たして進んでいるのかどうかも考え方次第でして)、最後に結末が用意されているとは限らないと。後は読み手が余韻とともに反芻する中でじわっとしてくるものがあるとでもいいますか。

 

一般に、直木賞は大衆文学を対象とし、芥川賞は純文学を対象とするように言われて、かつては大衆向けであるよりも純粋に「文学」なるものを指向したものの方が「エライ」と思われてましたが(かくいう自分もまた…)、いつの頃からか純喫茶がいささかの高尚を失ったように(どういう例えでありましょうか?)「純」なるものが必ずしも有難がられる(上座におかれる)ことがなくなって、純文学もまた…と思ったりも。さりながら、どっこい生きていたとも言えましょうか。

 

これまた例えが適当でないかもですが、音楽にもざっくりポピュラー音楽、クラシック音楽というジャンルの垣根がありまして、ともするとポピュラー=大衆向け、クラシック=いわゆる「純」音楽といった見方があったろうかと思います。ところが、純な音楽はもっぱら古典作品に親しまれるものの、現在進行形のものは「現代音楽」と言われて、ともすると聴衆置き去りの実験音楽的なるものにもなっていく中、ポピュラーと言われるところから(NHKの「バタフライエフェクト」ではありませんが)世界を動かすような曲が生まれ出たりもしているとなれば、どちらが「エライ」とかいう話ではありませんですね。

 

ですので、作品傾向の違いはあれど、直木賞作品は確かに面白いですし、一方で芥川賞系の作品には何とも言えない深みがあって、それぞれに別の読書体験を与えるものとなっているのでありましょう。ただ、個々人の趣味嗜好をとやかく言うのではありませんが、中学生の頃だったか、国語の教員から「星新一ばっかり読んでないで…」と言われたことが今頃になって「なるほどね」と腑に落ちたりもしたのでありますよ。

 

読んでいて話がすぐに分かるものは確かに面白いのですけれど、本を読むときにまさに読んでいる最中が面白いというのとは違う読書体験というのもあって、押しつけになってはいけんですが、そちらの方も知ってほしい、特に若い人には…というのが、かの国語教員の言いたいところだったのかもですな。こういってはなんですけれど、読んでる最中が楽しいというところにばかり接してしまうとすれば、武田砂鉄のいう「わかりやすさの罪」に絡め捕られているのであるかと思ったりもするところです。

 

ともあれ、流れからして本書を大いに持ち上げているようにも見えましょうけれど、短編集の最初の方に置かれた「指紋のついた羽」、「ユニコーンを握らせる」といったあたりには大いなる余韻を感じて、先にも触れた「深み」を意識したものながら、次の話、次の話と進むにつれて、状況設定といいますか、話の具体的な書き込みが増えていくほどに、どうも余韻として受け止める要素が減じていったような気が…。そんなところからも、区分けで言うところの大衆文学、純文学の境界線は極めてあいまいですし、文学に感性は必要ながら書く技術もまた必要不可欠であるなと思ったものなのでありました。

 


 

というところで、先週に引き続きまた両親のところへ行ってまいります。今度は父親の卒寿祝ということになりますので、先週の通院介助とは改めた席を設けるということになっておりまして。つうことで明日(2/24)はお休みを頂戴し、明後日(2/25)にお目にかかりたく存じます。