そして二人はその扉をあけようとしますと、

上に黄いろな字でこう書いてありました。

   「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」

「なかなかはやってるんだ。こんな山の中で。」

ご存知のとおり、宮沢賢治 の「注文の多い料理店」の一節でありますが、
ふと思うところは「当軒は注文の多い料理店です…」という文字を見かけて
「なかなかはやっているんだ」という印象を持つことに無理があるような…ということ。


これは「注文の多い料理店」の結末を知っているから言える…こともでもありましょうけれど、
「注文の多い」(より一般的な用例では「注文が多い」でしょう)との言い回しは
元来ネガティブな印象に繋がるものと思うからなのですね。


ここで改めて「注文」という言葉の語釈を探りますと、
goo辞書(デジタル大辞泉)には、このように記されています。

  1. 種類・寸法・数量・価格などを示して、その物品の製造や配達・購入などを依頼すること。また、その依頼。
  2. 人に依頼したり、自分が希望したりするときにつける条件。

注文の多い料理店・山猫軒の扉の記載を、

語釈の1で受止めれば「依頼がたくさんある料理店」となって、
「なかなかはやっているんだ」と繋がるものおかしくはないような。


一方で語釈の2と解せば、「出される条件の多い料理店」になりますから、
とんでもなく面倒くさそうな雰囲気があり、入るのを敬遠することになりそうな。


賢治は「注文」という言葉が持つポジティブ、ネガティブの両義性をぼかして
落ちに持っていったのではありましょうけれど、
いかんせん(繰り返しになりますが)「注文の多い」には

ぼかしきれないネガティブさがあるなあと、そんなふうに思ったのでありますよ。


と、このまま宮沢賢治のことを書いていくのか…と言いますと、さにあらず。
「注文の多い」ことをネガティブ、ネガティブと言ってきた矢先ですが、
どうやら「注文の多い」ことはまんざら悪いことばかりではなさそうだ…と思ったものですから。
小川洋子&クラフト・エヴィング商會による「注文の多い注文書」を読みましたあとになって。


注文の多い注文書 (単行本)/筑摩書房


既存の小説等に登場する「モノ」を素材に二次創作的な物語の背景を作り上げた上で、
その「モノ」自体を探してほしいとする「発注書」を小川洋子が書く。


「ないもの、あります」をキャッチフレーズとするクラフト・エヴィング商會では、
同時の調査(創作)によって該当する「モノ」を探し当て、
その捜索経緯や「モノ」にまつわる曰く因縁などを書き添えた「納品書」を書く。


そして、納品を受けた側の、「モノ」を受け取った後日譚的なところを
小川洋子が「受領書」を書く…と、こんな構成で仕立てられた一編一編ですけれど、
その捜索対象たる「モノ」を羅列すれば、こんな具合なのですね。

  • 人体欠視症治療薬(川端康成「たんぽぽ」より)
  • バナナフィッシュの耳石(サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」より)
  • 貧乏な叔母さん(村上春樹「貧乏な叔母さんの話」より)
  • 肺に咲く睡蓮(ボリス・ヴィアン「うたかたの日々」より)
  • 冥途の落丁(内田百閒「冥途」より)

現実的には「あるわけないよ」で終わってしまう「モノ」ばかりなわけですが、
(単に言葉どおりの貧乏な叔母さんは簡単に見つかるかも…)
そこはそれ、下敷きになっている物語からしてファンタジーと考えておいた方がいいわけで、
そこから二次創作された「発注書」に綴られた依頼の背景もまたファンタジー。


これに対して、発注者ではない側が無いものをあるように出してみせるやり方もまた
ファンタジーでありまして、受注側はどんなものが発注されるか分からない、
発注側もどんなものが納品されるか分からない中で、楽しんでやりとりしているようすがありあり。


それを感じるからこそ

読んでいるこちらも楽しさのおすそ分けをたんともらえるてな具合でありますね。


内容に踏み込んでしまうと、未読の方には興醒め必至ですので控えておくとして、
下敷きになった作品たちの並びを見て、ぴくん!というところのある方なら

読んで浸るのもよろしいかと。


そうそう、前置きとの繋がりをちゃんと書いておかねばですが、
「注文の多い注文書」での「注文の多い」点は確かに「条件が多い」ということであるものの、
それだけ発注物に対する思いが深いということなんですなあ。


そんなふうに受止めると、言葉の多義性にも思いを馳せるところでありますし、
宮沢賢治の自由さを受け止め切れない杓子定規な頭の中だったのかなとも

思ったりしたのでありました。


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