ひと月前にEテレ「100分de名著」で取り上げられていたル・ボンの『群集心理』は

それなりに興味深くはあったものの、指南役に登場した武田砂鉄自ら、

要約への疑義を発して(そうなると、この番組そのものがどうよ?というのは本人も意識してましたが)

それはそれで「なるほどね」と思えたところでもあり、スタジオ・セットに組まれた書棚に並んだ武田の著作、

こちらの方が『群集心理』以上に気になってしまったものでありましたよ。

 

 

というわけで、このほど武田砂鉄『わかりやすさの罪』を手に取ってみた次第なのですけれど、

要するにこの本は…などと言い出しますと、「勝手に要約すんじゃねえよ!」てなつっこみが

著者から入りそうな気がしてしまいますなあ。

 

よくある鶏と卵の関係ではありませんが、情報の送り手と受け手の関係を考えた場合、

果たしてどちらが先なのかは分かりませんけれど、送り手の方はひたすらにわかりやすく提供し、

受け手の側もまたわかりやすく提供されることを望んでいるということでもあるようです。

 

本来、「わかりやすい」ことは必ずしもよろしくいないこととは言えないわけですが、

おそらくは、これまた資本主義が付き詰められていく中で生じた効率至上の考え方の根付きが

背景にはありましょうなあ。効率的である=無駄が無い=儲けにつながるてなわけで。

 

「わかりやすい」ことは時間の無駄を省くことになると受け止めれば、その方がありがたいとも。

ではありますが、それがなにごとにつけ、わかりやすくなっていないと「いけない」と、

否定の対象にされたりすることには、著者ならずとも疑問を抱くところではありましょう。

 

時に、わかりやすさは掻い摘んでという要素を含みますから、掻い摘んでわかった気になってしまうのは

本当にわかったこととは違いますし、掻い摘んでないものに接して頭を捻ったりした結果として

腑に落ちたということになれば、それこそ本当に分かったということになるのでもなかろうかと。

その考えるプロセスがより大事であろうところであるにも関わらず、それをすっとばして腑に落ちた気になる。

それがメディアなどを通じて、よりマスな形で腑に落ちた感を抱いてしまいますと、ル・ボンの言った

「群集」になってしまうのでもあろうかと思うところです。

 

同じような考えは、ちょいと前の東京新聞夕刊の記事でも見かけましたですね。

「ナレーション過多の日本」という小見出しがついた記事の部分にちと触れてみようかと。

…そこ(ドキュメンタリー映像)から何を受け取るかは見る側の自由である。本来、多義的な映像をナレーションで一義的にすることで、ドキュメンタリーの物語は飛躍的に紡ぎやすく、そして分かりやすくなるが、本来、映像が持つ現場のリアリティーやダイナミズムは減衰するのである。

一義的ということは解釈の余地が無い、これはこういうことだという以外に無いということになりますですね。

受け手の側がわかりやすさを求めるあまり、「結局、どういうことなんだ」をちゃんと提示しろと、

そんな指摘が出てくるようになってもいるようですけれど、「なんだこれ?」というものに対して頭を捻ることを

時間の無駄と考えてしまっては、「これが正しい」と言われて唯々諾々と従うばかりになってしまうのでは。

やっぱり、ル・ボンの言う「群集」の誕生を見る思いがしますですね。

 

正解は必ずしもひとつではないことについて考える。

これは、唯一つの正解があるという前提で出題される試験を乗り越えるための勉強からは生まれないとして、

本書では教育のあり方も疑問視されておりまして、それはそれでその通りではあろうものの、

教育のありようは昔の方がさらに画一的であったと思しきところながら、

ひたすらに正解を示せと求めるような、そうした風潮が多く昔からあったとも思われず。

教育のありように輪をかけてくる何かしらが作用しているのでしょうなあ。

 

言えることは(といって、何度も触れてはいることではありますが)物事を批判的に見て考えることが

大切であろうということ。今、世の中には批判的に見て考えること以上に、ただただ非難が渦巻いているような

気にもなったりしたものなのでありました。