1740年3月21日の晩、折しもヴェネツィアに来訪していたポーランド王子のために音楽会が開かれたのだそうな。そのときのプログラムが残されているということで、ヴィヴァルディの曲を集めて部分的にもせよ、その晩の演奏を再現する試み、それがこのCDでありました。先ごろからヴィヴァルディをあれこれのCDで聴いていて、だいぶご無沙汰していたこのCDも久しぶりに取り出した次第なのでありますよ。

 

 

アンドルー・マンゼのバロック・ヴァイオリン弾き振りによるエンシェント室内管弦楽団との共演は、まさに賓客をもてなす演奏会を想像させる華やかで楽しい音楽に溢れておりますな。こういっては何ですが、ヴィヴァルディの音楽にこんな側面もあったのかと思ってしまったり。また、シャリュモーというクラリネットの原型のような古楽器が使われる協奏曲では、そのほわほわっとした音色に何やらにんまりさせられたりも。

 

ちなみに演奏会の日付まではっきりしているとなれば、「このときのポーランド王子って誰?」とつい検索してしまうのですなあ。結果、フリードリヒ・クリスティアンであると判ったのですけれど、このまったくドイツ人っぽい名前は?と思えば、当時はザクセン選帝侯がポーランド王を兼ねていたということで、早い話がザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の子息にあたるという。ですので、当のフリードリヒ・クリスティアンものちに選帝侯を継いでおりますが、生来病弱だったということでもあり、1763年に即位するも2か月ほどで亡くなってしまい、ポーランド王の方は継ぐ間もなかったようですなあ。

 

ところで、ザクセン選帝侯といわば宮廷をドレスデンに構えて、芸術の香り高い都としたのではなかったかと。時代としては、大バッハがドレスデンから遠からぬライプツィヒで活躍中、1736年にバッハは「ザクセンの宮廷作曲家に任命」(Wikipediaによる)されていたりするのですから。と、そんな連想からもう一枚取り出したCDがこちら、「ドレスデン宮廷管弦楽団のホルン協奏曲集」という一枚です。こんなCDが作られたくらいですから、ドレスデン宮廷での音楽受容のほどが偲ばれようというものですなあ。

 

 

ホルン協奏曲といえば、何よりもモーツァルトの作品が夙に知られておりますけれど、それよりも些か前の世代の作曲家によるもの。ここではかつての東独で活躍していた名ホルン奏者ペーター・ダムが通常より高い音域のディスカント・ホルンを駆使して、バロック期の音楽に馴染む演奏を聞かせてくれておりますな。

 

取り上げられた作曲家はクヴァンツ(フリードリヒ大王のフルートの先生)、ゼレンカ、ハイニヒェン、テレマン、ファッシュと、テレマン以外はあまり知られていない名前ではありますが、これが皆どれも楽しめる曲ですので、このCDもまたしばしヘビー・ローテーションに陥って(笑)。ただし、ここではたとヴェネツィアのヴィヴァルディを振り返りますと、当時のイタリア音楽とドイツ音楽、やはり土地柄ということもありましょうかね、方や陽光燦燦の印象があるも、方やお日様貧乏の北ドイツ、決して派手にならず、はっちゃけることは無いのですなあ。

 

もちろん、だからドイツの方が格下とはいいませんけれど、どんより気候はウィーンの宮廷でも同じことですから、サリエリを引き合いに出すまでもなく、宮廷楽長、宮廷音楽家にはついついイタリアから招きたくなってしまうのであったかもしれませんですね。単に当時の音楽先進国がイタリアだったからと言われることもありますけれど、その音楽に反映される雰囲気といいますか、陽光降り注ぐイタリアの憧れ込みだったのかもと思うところです。

 

ゲーテも憧れが昂じて職務をほったらかし、イタリアへと出かけてしまったりしましたけれど、はてポーランド王子がドレスデンからヴェネツィアを訪ねたのはいかなる理由であったことか。もしかすると(想像をたくましくすればですが)ザクセン選帝侯としてポーランド王を兼ねるのが、ロシア皇帝エカテリーナ2世の暗躍で(?)危うくなりそうなところから、周辺国との融和外交に努めたりしたのかも。実際、先にも触れたとおり父王が亡くなると、ザクセン選帝侯にはなるも、ポーランド王には即位しないままにフリードリヒ・クリスティアンは亡くなってしまったわけで。

 

その後、ロシアの肝いりでポーランド王になったのはスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ。エカテリーナの愛人とも言われる人でありまして、このあたりのことは池田理代子の漫画『天の涯まで ポーランド秘史』に描かれておりましたっけ。

 

と、またまた余談が長くなりましたですが、久しぶりに取り出した2枚のCD、それぞれにしばし繰り返し聴きながら、楽しい気分に浸ったものでありましたよ。