しばらく前に立ち寄ったところではありますが、かきはぐれておりまして。
訪ねたのはJR中央線・武蔵境駅から歩くこと十数分という、なぜここに?という場所に
武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館はありました。
元々は市立図書館の分館だった建物を使って作られた施設のようでありますねえ。
「住みたい街ランキング」のようなものでは必ずといっていいほど上位にランクされる吉祥寺を擁する武蔵野市。
コンサートホール、劇場、美術館と文化的な施設では充実している感がありますけれど、
歴史を語る点ではちと力の入れ具合に違いがあるのでしょうかねえ…。
それはともかくとして、企画展「武蔵野の名所」という展示が開催中(12/28まで)でありまして、
先ごろにはたましん歴史・美術館@国立市で多摩川に絡む名所絵などを眺めてきたものですから、
「はて武蔵野となると…?」と考えたような次第でありまして。
館内は結構多目的仕様で、市民のためのイベントスペースや会議室を併設しているため、その分展示に、
しかも企画展示に充てるスペースには限りがあるようで、「ここか?!(わざわざ来たけど…)」とも。
されど(それが故でもありましょうか)、無料配布されている企画展パンフレットは展示の全体像、
図版も解説文もふんだんに盛り込まれて、これだけ手にとれば展示スルーでもOKというくらいのもの、
ありがたく頂戴してきたので、これを見ながら振り返ることにいたしますが、名所の紹介そのものよりも、
興味をひかれたのは「武蔵野」のイメージという点ですなあ。
今、「武蔵野」といった場合、地理的には都心部、すなわち23区エリアと多摩の中間あたりの広がりを思い、
思い切り都会ではないものの、かといって田舎でもない、やはり吉祥寺に代表されるような、
一種のおしゃれとほどほどの自然(井の頭公園がありますし)という好印象が描けようかと。
そんな今の武蔵野イメージとは違って、「古代から中世にかけて京の都の貴族や僧侶を中心に、
和歌の歌枕として親しまれ」たという「武蔵野」はむしろ草深い野原であることが特徴的であったようです。
「伊勢物語」にも「更級日記」にもそんな景観が描かれているようですけれど、展示解説では
室町中期の学僧・尭恵が「北国紀行」に残した歌が紹介されておりましたよ。
露払ふ道は袖よりむら消の草葉に帰る武蔵野の原
ここで詠まれた歌の景色は今の中野あたりだと言いますから、
先に触れたよりも武蔵野のエリアが広く受け止められていたことが分かりますですね。
先日は太田道灌の山吹伝説を思い出しておりましたけれど、あれも越生と言われればなるほどながら、
新宿にも山吹伝説の場所であるとの言い伝えが残るわけでして、新宿のあたりとてかつては野っぱらだったと。
これは何も室町時代だから鄙びた場所だったというにとどまらず、以前読んで驚かされたことには
明治の時代、国木田独歩が『武蔵野』を書いたときには、渋谷もまた武蔵野だったということですのでねえ。
とまれ、そんな広域であったはずの武蔵野は、今ではもっぱら武蔵野市ひとりが背負っているようなことで、
その印象が大きく変わったのでもありましょうねえ。というところで、常設展の方へ足を向けてみます。
やおら爆弾が展示されておりますが、かつて「日本有数の航空機エンジン製造工場」であったという
中島飛行機武蔵製作所があり、お隣の今の三鷹市にある軍需工場、あるいは調布の飛行場なども含め、
太平洋戦争時には爆撃対象になったことからでありましょう。
それは(今のところは差し当たり)ともかくとして、
昔は草っぱらでしかなかった武蔵野に人が集住し始めたのは玉川上水の恩恵なのでしょうなあ。
水が通うようになって新田開発が進められ、農民が住まうようになっていったのであると。
一方で、あらためて武蔵野の名所という点に立ち返りますと、その玉川上水は実利のみならず、
憩いの水辺ともなっていたようで。
近辺に井の頭池がありまして、玉川上水に先立ってこの池から神田上水が引かれ、
江戸市中を潤していたとは夙に知られるところながら、この池もまた憩いの水辺として名所だったわけですな。
こうしたことからも、人は水に頼って生きており、また潤いを愛でる感覚は昔からのものであるのだなと
考えたりしたものなのでありますよ。