200万年ほど前、多摩地域のほとんどは海だったわけですが、
ちょうどウォーターフロントにあたるのが今の昭島市のあたりで、
その頃にゆうゆうと海を泳いでいたであろうアキシマクジラの化石が発見された…とは
先日訪ねた「アキシマエンシス」で知るところとなったことでありますね。
化石を発見したのは市内在住の小学校の先生とその息子さんでしたが、
ほどなく市の教育委員会を通じて専門家に調査が依頼されることに。
その際、専門家として招かれたうちのひとりが甲野勇という考古学者であったということも、
「アキシマエンシス」の展示解説で知りましたけれど、この方の肩書が国立音楽大学教授とあって
「はて?」と思ったものですが、音大とはいえ一般教養の授業もありましょうから、
考古学の教授がいても、まあ、不思議というにはあたらないというべきでしょうか。
ということで、その時にお名前に接した考古学者・甲野勇ですけれど、
たまたまにもせよ、地元のくにたち郷土文化館で「甲野勇 くにたちに来た考古学者」という展示が開催中とは。
なんでも戦後から1967年に亡くなるまでの20年ほどの間、国立市に住まっていたのではそうな。
(Wikipediaにある「移り住んだ武蔵野を拠点に…」という記載では、よもや国立市のこととは思いも寄らずでしょう)
どうやら縄文土器の分類に関しては相当に知られた学者であるようでして、
1945年にお隣の国分寺市(当時は国分寺町)で黒曜石の剥片が見つかった折、
甲野に話が伝わって、後日改めて調査をといっているうちに、
翌1946年に群馬県の岩宿遺跡が発見されてしまった。
これは「縄文時代よりも前の日本には人類は存在しないという、それまでの定説を覆した」発見として
同遺跡のオフィシャルサイトに「日本にも世界史でいう旧石器時代段階に人々が生活していたことを
はじめて明らかにした」と書かれる栄誉をもたらしたわけですが、実は前年に国分寺で見つかったものも
よくよく調べれば同様の発見に繋がっていたとされるものだけに、もしも見つけて早速に発掘にかかっていれば
国分寺と甲野勇の名はもっともっと知られていたことでありましょう(ご本人も後悔しきりであったとか)。
とまあ、そんな考古学者の方であるわけですが、博物館作りにも邁進した人物であるということで。
折しも敗戦によって、それまでの皇国史観がそっくり見直されることになる中で、
これからの若者に日本の歴史を改めて考えるよすがとして博物館を構想したようでありますよ。
まず、最初に立ち上げたのは1948年、井の頭公園に開園した「武蔵野博物館」、
これが1951年に小金井公園に移転して「武蔵野郷土館」となった…となれば、
江戸東京たてもの園の前身かと思うところ。実際、復元した建造物を展示するというあたりからして
系譜としてつながりはあるようですけれど、軸足はずいぶん異なったことでしょう、今や「江戸東京」ですから。
一方、復元建物ではない数々の考古学資料は「武蔵野郷土館」のほか、
奥多摩町に設けられた「多摩郷土館」にも所蔵・展示されていたところが、やがてこれが閉館、
東京国立博物館が所蔵していると言いますから、価値のある資料だったのでありましょうね、きっと。
ともあれ、甲野が目指したところは、スウェーデンのストックホルムにあるスカンセン(有名な野外博物館)を
範としたものであったそうな。あいにくとストックホルムを訪ねたときには、美術館から美術館への移動の際、
スカンセンの周辺部をトラムで通り過ぎただけでしたけれど、「おもしろそうなところだなあ」とは思っておりました。
その翌年にノルウェーのオスロで訪ねたノルウェー民族博物館が類似施設となりましょうか。
広い敷地に満載の見どころであったことが思い出されますですよ。
ま、個人的思い出はともかくも、なかなかに壮大な博物館構想を思い描いたようでもあり、
先日読んだ「博覧男爵」の主人公・田中芳男のことを思い返すことにもなったりしたものです。
こうした人たちがいたおかげで、あちらこちらでさまざまな展示が見られる施設ができていたとなれば、
そのありがたさを(取り分け、このコロナ禍で遠出ができにくい中ではなおのこと)感じたものなのでありました。
ちなみに甲野は、少々畑違いのようにも思うところながら、奥多摩・桧原村にサルが出没することを知り、
「東京モンキーセンター計画」なるものも構想したのだそうな。多摩動物公園の協力を取り付け、
桧原村村長の理解も得、村議会でも了承されていたというのですが、実現には至らなかったようで。
実現していれば、東京に高崎山のようなサルの王国が出来ていたのかもしれませんですなあ。