すでに国内では県をまたいだ移動は可能になっているわけですが、相変わらず近所をうろうろしておりまして。
一応東京都民ですが、それでもあんまり都心に行きたくないなあと思ったりもしているくらいですから、
他県からすればそんな東京から来てほしくなかろうなあとも思ったりするわけです。
まあ、以前にも申しましたですが、子供が徐々にその世界を広げて行くように
のんびりと行動範囲を広げて行こうかと思っておる次第。ということで、
週末に出かけた先はまたしても自転車行動圏内にあるくにたち郷土文化館でありました。
「くにたち」を本来の漢字で書いてしまいますと、国立郷土文化館という大層な施設に勘違いされてしまいますので、
ここは分かりやすくひらがな書きで。ま、国立市の中はそんなところだらけですけれどね。
とまれ、そんな郷土文化館では
ミニ展示「国立駅開業と国立大学町の開発-「赤い三角屋根」誕生のころ-」を開催中でありますが、
本当ならばミニ展示でない企画展として旧国立駅舎再築完成記念「赤い三角屋根」誕生 -国立大学町開拓の景色-」が
開催されることになっておりましたが、コロナ騒ぎで閉館しているうちに会期終了。
おそらく借用していた展示品なども返さなくてはならなくなったのか、ミニ展示の縮小版で始まることになったのですなあ。
ともあれ、国立という大学町が造られる経緯の一端は、
先に「くにたち大学町の誕生」という一冊を読んだときに記したことに譲るといたしまして、
ここでは展示から知ることのできた落穂拾い的なるあたりを。
メインになりますのは、上のフライヤーの写真にも見える三角屋根の駅舎。
これは1926年(大正15年)に建てられたものでして、中央線の高架化に伴い撤去されることになりますが、
市の文化遺産であるということから解体して部材を保存してありました。
JRとのやりとりを重ねて、駅前南口の土地を市が譲り受け、再建されたものが、今年2020年春にお目見え、
そんな経緯でもある展覧会なわけですけれど、化粧直しされた旧駅舎は毎日通勤時に目にしていながら、
まだ中には入ったことがない。ま、あまりに身近過ぎて…という、よくある話でして。
と、その旧国立駅舎ですが、なぜにかようなこだわりがあるかと言いますれば、
その形・意匠が個性的であるということになりましょうか。中央線の他の駅で、これほどに意匠を凝らした駅舎が
その初代のままの姿で今に残っていること自体も珍しいというわけで。
ですが、何だってそんな個性的な駅舎ができたのかについてはあまり考えてみることもありませんでしたが、
この駅はそもそも中央線を運行する側が造ったのではなくして、「くにたち大学町」という構想の中で、
住民の足を確保するために、開発に携わった箱根土地会社(紆余曲折を経て今はプリンスホテル、西武系ですね)が
駅を造るからここに列車を停めてくださいとお願いしてできた「請願駅」であったということで。
つまり、都市開発側としては最初からランドマークになることを想定していたというわけです。
箱根土地が手掛けた証拠?というわけでもありませんが、国立に先駆けて開発に着手した大泉学園都市でも
造られた駅が三角屋根であったということもありますし。ただ、大泉学園の旧駅舎は左右対称であったところが、
国立駅の方は非対称なのですよねえ。
この非対称であるのところに、個人的には長らく違和感を抱いていたのですけれど、
ふと気づいてみれば開発された町を斜めに貫く二つの通り、
南西に向けては富士山が望めるところから「富士見通り」があり、
東南に向けては朝日が見えるからと「旭通り」があって、
しかも旭通りはある程度進むと国分寺崖線に突き当たることから南側へと折れる、
つまり街並みそのものが非対称の三角形であったことに気付いてからは見方が変わったのでありますよ。
されど、今回展の中で旧国立駅舎の形が三角屋根ながら非対称となっているのは、
奇しくも町の形に類似して…てな話ぶりでありまして、両者に直接的な関わりはなさそうな。
ですが、街区を考えたのは箱根土地、駅の設計も箱根土地の技術者であって、いくらシンボリックな駅舎を造るとはいえ、
街区のイメージが先にあったのは間違いないところでしょうし、そこに影響を受けなかったとは言えないのでは、と思ったり…。
まあ、そんな思い付きにこだわる話ではないのですけれど、展示の中で「おお、そうであったか?!」と思いましたのは、
大学町を開発して、住民のための足を確保するというのは何も中央線に駅を作ることばかりではなかったのですなあ。
国立では駅前から「大学通り」(しばし進むと左右に一橋大学のキャンパスがあります)が南へまっすぐ伸びていますが、
この通りは幅が40m以上もある、街の規模の割には不釣り合いな?大通りなのですね。
なんでもこれは移転してくる東京商科大学(現・一橋大学)側の要望であったということですけれど、
昔の地図を見ますと、この大通りに点線で「予定線」という文字が書かれてあったりもする。
甲州街道沿いに走る京王線が府中で分岐して国立駅まで支線を通す予定であった、
それが大学通りのど真ん中を抜けてくるはずだったというのでありますよ。
結局、この支線は実現されずに国立駅・府中駅間は京王バスが走っていますけれど、
この路線が走っていたならば、今、国立の景観の魅力のひとつとして捉えられる大学通りの見られようは
大きく変わっていたろうなと思います。これはできなくて良かったのかも…。
それ以外にも、郊外の宅地化の関係で都心と多摩地域を東西に結ぶ鉄道路線はいくつも申請されたそうで、
その中のいくつかは当初計画を変えて国立駅に立ち寄るような路線が目論まれたといいます。
すべては大学町開発に携わった箱根土地、ひいては堤康次郎が立ち回ったところでもあろうかと。
ま、結果的には国立駅は中央線しか走っていないのですけれど、
いくつも立ち上がっては消えていった幻の鉄道計画、かつての企画展の図録ということですが、
「学園都市開発と幻の鉄道~激動の時代に生まれた国立大学町~」に詳しく出ていますね。
ということで、非常にローカルなお話ですが、地元なだけに長くなってしまいました。
いずれの土地にも歴史あり、ということでありますねえ。