今月分もまた読響演奏会は取りやめでありました。最初に3月公演取りやめがお知らせされるにあたっては

結構ぎりぎりまでやるのか、やらないのか…やきもきさせられたものですが、その後は4月分、5月分と

わりとささっと開催見送りが通知されて、6月公演分はけっこう早めに決まっておりましたなあ。

ま、出演する側にもいろいろと準備がありましょうからね、早めに決めてほしいのは聴く側ばかりではないでしょう。

 

東京都からのお達しはいささか足早に「ステップ」を上りつつありますので、

来月あたりはひさびさにコンサートホールへてなこともありましょうか。

1000人以上もの人が密閉空間に入ることになり、静かに聴いているとはしても、

心理的には微妙な感じも。果たして、どうなりますか…。

 

ということで、本来ならば東京芸術劇場大ホールで聴けるはずだった演奏会は「華麗なるバレエ音楽」…と

言いながら、なぜかしら1曲目にチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が置かれ、

その後にプロコフィエフの「ロミオとジュリエット」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」と続くプログラムなのでありました。

 

 

ここで例によってこのプログラムを再現する自宅イベントということになりますと、

まずはチャイコフスキーのピアノ協奏曲のCDを取り出して…となるわけでして、

確かにカラヤン・ワイセンベルク盤、マゼール・アシュケナージ盤、デュトワ・ボレット盤と改めて聴いたものの、

この曲はどうしても演奏会で聴く絢爛さのイメージを求めてしまうところがありまして、

どうにも物足りなさを感じてしまうのですな。ま、個人的決定盤を見出しかねているということでしょうかね。

 

そこで、続くバレエ音楽の方へとさっさか進んでいきますが、

アンドレ・プレヴィン指揮、ロンドン響によるプロコフィエフの「ロミオとジュリエット」全曲盤のCDを取り出し、

聴いていたところが、ふと頭に浮かぶことがあり、思いはそちらの方へ流れ気味に。

なんとなれば、「これってバレエのための音楽なのだよなあ」といういことを今さらながら…。

 

 

そもオーケストラ演奏会で取り上げられるときには、部分的に抜き出した抜粋で演奏されるわけですけれど、

それは必ずしも本来のバレエの筋書きとは離れて、全体の構成から元の順序を入れ替えたりされたりも。

そうしたことから、「ロミオとジュリエット」としての物語があるとはもちろん知りつつも、

もはやそのストーリーを意識せずに単に「音楽」として聴いていたりするのですよね。

 

さりながら、改めて全曲盤としてバレエにストーリーを語らせるための付随音楽であることを意識すると、

(プロコフィエフが単なる付随でなくして、音楽自体にも語らせる工夫をしたとは以前書いたものの)

聴きながら話の筋としてどこまで行ったかな…みたいなことが気になり出したりするという。

こうなってくると、どうしたってバレエがあって欲しいような気がしてきてしまうわけです。

 

これがラヴェルの「ダフニスとクロエ」の全曲盤(マルティノン指揮パリ管)でも同じような気がするものの、

当日の演目に挙がっていた第2組曲という形、演奏会用の管弦楽曲として再構成された方を聴きますと、

思い込みなんでしょうかね、なんだか「音楽」を聴くという心持ちになるような。

不思議といえば不思議なものです。(ちなみ第2組曲は、デュトワ指揮モントリオール響で)

 

 

そも音楽には何らかイメージを喚起させる力があると思うのですけれど、

既存の物語に寄り添う音楽の場合にはもともとのお話と浮かぶイメージのマッチ度合い、

ときには敢えてミスマッチであるかのような音楽で印象付けるといった効果を狙うものもありましょう、

とにかくベースにはどのようなものであるにせよ、ある種の絵柄が付いているやに思うところです。

 

一方、そうではない音楽の場合、どんなイメージを膨らませるかは聴き手の気まま、

そうした自由さは、ともするとストーリーをたどらなくてはならないということを制約と捉えてしまったりするかも。

それがバレエ(映画音楽なども同様といえましょうけれど)という視覚的なものでストーリーを提示てくれるとすると、

耳から情報の方はただ「聴く」ことに専念できるのかもしれませんなあ。

 

ま、このあたり個人的に複合的な情報の処理能力が劣っているのかもしれませんですが、

実際の演奏会ではおよそ思い至らなかったことを考えてみることになったのでありました。