古典の知識に溢れた方には今さらでもありましょうけれど、

そのあたりに疎い者には「こりゃあ、ちょうどいい学習機会でもあるか」と出かけたのが

「名勝八景 憧れの山水」展@出光美術館 でありました。


「名勝八景 憧れの山水」展@出光美術館

何々八景なるものは古来の画題としてよく聞くところでありますので、

その辺の学習をと思ったわけなのですけれど、そも最初の「ごあいさつ」的に案内文を見て

すっかり展覧会の見方が変わってしまったのですなあ。


そこには中国古来のお楽しみの方法として「臥遊」というのが紹介されておりまして、

曰く「さまざまな景勝地の美しき情景を山水画の中で想像し、

そこに自ら遊ぶ様子を妄想する鑑賞の仕方」であると。


風景画、山水画を単に「絵画」として見るのでなくして、絵の中に入り込んでしまう。

それこそ「80日間…」の芝居 ではありませんが、居ながらにして空間を超越し、

異空間に遊ぶというのは、普段からそうした形で絵画を鑑賞していた方もおられましょうけれど、

個人的にはその発想は無かっただけに、ひどく新鮮に感じたものでありました。


のっけからそんな洗礼?を受けて臨んだ第一番目の展示は玉澗の「山市晴嵐図」で、

この絵は後花園天皇が室町殿行幸の際、出迎える部屋の壁に飾られていた一枚であるとか。


そして、その後の所有者は大友宗麟 であったり、豊臣秀吉であったり、

はたまた時代は下って松平不昧 であったりしたと知れば

歴史との絡みの方にばかり目を奪われてしまったのが従来でもあったろうかと思うところです。


されど、このときは先の洗礼がありますから、そのつもりになって絵に向かいますと

不思議や不思議、美術館の展示ケースごしに見ている状態を抜け出て、

描かれた空間に立って眼前の景観を眺めやっているような気がしてきたのでありますよ。


ちょうどフライヤーに使われているのがこの玉澗作品で、

中央に二人、杖に依りながら斜面を登っていく人影がなんとか見えようかと。

その二人がまさに山を登りつつある、その同じ空間にあって彼らを見ている、

そんな気にさえなりました。人の想像力はそうしたこともできるものなのですなあ。


この一枚は湖南省の洞庭湖を中心に選ばれた「瀟湘八景」のひとつ題材で…と、

本展に出向いた本来はその辺りを知ることにあったところながら、

どうも今回そっちはいささか脇へ措いといてということになってしまったという。


ではありますが、玉澗作品に続いて数々の山水画が展示されており、

同じように「臥遊」するつもりでそれぞれに臨んだのですが、

どうもかの作品ほどにその世界に入り込んでいるところを想像しやすくはなかったような。


大きな屏風の場合には、その折れている部分が景観のリアルさを阻害してしまって

入り込みにくいのかなと最初には。ですがまあ、それはそれとして大きなパノラマを

絵の中で移動して見て回っていると思えば…ということに気が付いたりも。


ただ、(屏風に限らずですが)楷体山水と呼ばれるらしいくっきりはっきりした画面には

やはりどうも入り込みにくいところがあるような。


筆文字に楷書、行書、草書といった書き分けがあるように、

水墨画にも楷体、行体、草体という形があるようで、

およそそれぞれの文字から想像される絵の見た目になるような。


ですので、楷体といえばくっきりはっきりした画面となるわけですが、

実際に風景を眺めやったときには楷体山水のように細かな部分まで

はっきり見えることはないでしょうから、それが没入を妨げてしまうのかなと。


なんだかだんだんと「この期に及んでとやかく言うか」的になってしまってますけれど、

出かける前とは思惑違いではあるものの、今さらながらの気付きがあったことには

大いに満足した展覧会ではありました。


これまではとかく「物語を思い浮かべられるかどうか」みたいな部分に

思いを持って行ってしまってましたが、水墨に限らず洋画であっても

ちと新たな視点で絵を見ることができそうな気がしておりますし。