ひっさしぶりに東京オペラシティに行ってきました。
近頃は池袋の東京芸術劇場比率ばかりが高くなってとんとご無沙汰状態でしたけれど、
知らないうちにいろいろと微妙な変化はあるようですねえ。
と、オペラシティそのものでなくしてたどり着くまでの途中の話ですが、
初台へ行くのに吉祥寺から乗った井の頭線を明大前で乗り換えて…というとき
京王線明大前駅の発車メロディ(この言葉でWikiには一項立ってますが、一般的な言葉?)に
「ん?」と。果たして明治大学 の校歌が使われていたのですなあ、いつのまにか。
まあ、明治大学和泉校舎の最寄であって駅名が「明大前」ですから、
明治がOKすれば使っておかしいということはないのでしょうけれど、
ご存知のように?この歌の歌い出しは「白雲なびく駿河台」と地名入りなのですよね。
世田谷区松原に所在する駅(ちなみに校舎は杉並区永福に所在)で「駿河台かよ」
…てなふうに受け止めるのはおそらく極めて少数派でありましょう、きっと(笑)。
とまれ、かような余談はともかくとしまして、
東京オペラシティに出向きましたのは東京シティ・フィルの演奏会を聴きに。
演奏機会にあまり出くわせない曲目にはつい食指が動く方ですので、
今回のオール・ハンガリー・プログラム、見事にツボにはまりましたなあ。
何しろブラームス
のハンガリー舞曲やリスト
のハンガリー狂詩曲といったお馴染みでなく、
コダーイのガランタ舞曲、バルトーク のピアノ協奏曲第2番(ソリストは小山実稚恵 )、
そして再びコダーイのハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲ですからねえ。
ただ、こうしたレアっぽいプログラミングせいもあってか、
今回もまたコンサートホールの埋まり具合は今一つというより、今ふたつみっつかと。
以前にも東京シティ・フィル の演奏に触れて「もっと聴かれてもいいような」と思いましたですが、
この日も相当に満足度の高い演奏(もちろんピアノの熱演も加わって)でありましたよ。
ところで、今回の演奏会は駐日ハンガリー大使館が後援していて、演奏前のプレトークには
大使が自ら登場、「日本・ハンガリー外交関係樹立150周年の今年にこのような演奏会が
開催されることに感謝します」てな挨拶をされておりました。
150年前といえば1869年、日墺修好通商航海条約が締結されたわけですが、
「墺」は単にオーストリア でなくして、オーストリア=ハンガリー二重帝国だったのですなあ。
そう知ってみると、いささか複雑な思いもよぎったりするもするような…。
まあ、そんな記念の年だからかようなプログラムにしたというわけではないようで、
指揮者・高関健の個性的なプログラムありきであったものが
たまたまハンガリー大使館の目にとまったということであるらしい。
やはりプレトークで当の指揮者が話しておりましたですよ。
で、プログラミングした本人によりますれば
この演奏会のメインはバルトークのピアノ協奏曲ということで、
確かに小山実稚恵、狂乱の一場ともいうべき?長い黒髪をふり乱しての演奏は
(たぶんそんなふうに演奏しないと弾けない曲なのだろうと思います)
聴き応え、見応えともどもにあるものでありました。
が、個人的な注目は最後のコダーイですかね。「孔雀は飛んだ」というハンガリー民謡は
五音音階(Eテレ「らららクラシック」でよく話に出るヨナ抜き音階でしょうか)ということで、
日本の民謡などにも通ずるところがあり、なんとはなしに郷愁を感じてしまうような気も。
外山雄三が作曲した「管弦楽のためのラプソディ」では「八木節」がフィーチャーされて、
日本民謡をフルオケで演奏する微妙な違和感が聴き取れたりするところですが、
それよりはオーケストラという器に馴染んでいるのは、
ハンガリーの根っこにアジアはありながらもヨーロッパの一部にある長年の歴史の結果として
西洋音楽の語法で消化する術に長けたというかもしらんと思ったり。
そんなことを考えますと、
ハンガリーでは名前が姓、名の順で呼ばれるといったアジア的な部分も残ってはいるも、
さまざまな人が交錯する地続きのヨーロッパにあって文化もまた交錯した結果が
今に伝えられているように思うところなのですね。
とかく国や民族に「固有の文化」などという言い方がされたりしますですが、
常に外的刺激と接触しあいながら変化を遂げてきているものの固有性とは
いったい何ぞということに思い至ったりするという。
このことは何も地続きであるヨーロッパばかりに言えるのではなくして、島国・日本もしかり。
古くは大陸からどんどん文化的要素を吸収して形成され、
その後に独自性を培っていったにしても時々に外的刺激には触発されたに違いない日本文化。
果たして「固有性」をどう考えたらいいのでありましょうかね。
だからといって培われた文化を大事にする必要がないてな話では無いですが、
(毎度繰り返す言い方ながら)あまりに「国」や「民族」という枠組みを縦割りにしたこだわりは
枠組みにとらわれ過ぎてしまう嫌いがあるなと思えてくるものですから。
と、またしても演奏会の話から外れてきましたけれど、
そんなことなども思い巡らしたりしたものの、レアな曲を堪能できるひとときなのでありました。
