前に明治大学博物館
を訪ねた際に立ち寄りそこねていましたので、
このほどは「どんなもんかいね?」と覗いてみたのが併設されている阿久悠記念館。
作詞家の阿久悠は明治の卒業生だったのですなあ。
かつて「歌謡曲」という言葉が生きていた頃には、
どの歌見ても阿久悠作詞でもあらんかという時代がありましたですね。
数多い中からはヒット曲もたくさん生まれて、展示を見ながら思い出すことあれこれですが、
レコード大賞の受賞歴から一部を引いてきてみても、
1971年「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)、1976年「北の宿から」(都はるみ)、
1977年「勝手にしやがれ」(沢田研二)1978年「UFO」(ピンクレディー)、
1980年「雨の慕情」(八代亜紀)と出てきて、これはみんなレコード大賞の大賞受賞曲。
他にも「ジョニイの伝言」(ペドロ&カプリシャス)や「熱き心に」(小林旭)などで
作詩賞を取ってもいるのですな。
こうなってきますと「なんでもござれ」の感があり、
阿久悠作詞の曲がいつもどこかから聞こえてくる時代をリアルタイムで過ごした若者時分には
なんとも節操のない書きっぷりてなふうにも思えてものでありましたよ。
(必ずしも好きな歌ばかりというわけではないだけに…)
ですが、時代を経て改めて阿久悠の生涯と事績とを展示で振り返るに及んで、
今さらながらに「大した人だぁねぇ」と思えるようにもなっていましたですよ。
先に「なんでもござれ」を節操がないてなふうにも思ったと言いましたですが、
ただ書くだけでなくヒットする歌を書いたということを考え合わせるにつけ、
よほどアンテナの感度を磨いていたのだろうなあと思うわけでして。
ところが展示の中に本人自筆原稿の詩でしょうか、
「時代おくれの新しさ」というのがあったのですね。
これを見ると磨いたアンテナをいつまでもひたすらに先に向け続けていたのではないと
想像されようかと。冒頭部分はこんなふうです。
時代に遅れないように
というのがモットーで
そればかり考えて来たが
近頃になって
どうしたら上手に
時代に遅れられるだろうかと
懸命に考えている
では何故に遅れようとしているのか、
少々飛ばした後にはこんなふうにありました。
変わらなくてもいい変化
不必要な新しさ
人間を馬鹿にした進歩
それらを正確により分け
すぐに腐る種類の新しさや
単なる焦りからの変化には
「パス」
と叫んでも悪くない
このあたり、ともすると時代の生み出すあれこれに引き摺られかねない中にあって
ここで言っているようにしたくとも難しい面というのがあるやにも思いますが、ではどうする?
この詩はこんなふうに締め括られるのですね。
しかし
そのためには
新しがるよりもっと正確に
時代の知識が必要になる
一歩先へ行って
時代遅れを選択する
やっぱり
幸福を考えたいから
単に「新しがる」ことの安易さ、安直さがじわりと来ます。
要するに選択してないではないかと。
より新しい=より良いではない。
だからといって、より古い=より良いでももちろんない。
何をもって良しとするのかは積極的な選択に委ねられていて、
それを放棄するのはどうよですし、安易な選択では結果が良いとは限らない。
これって、いろんなことに当てはまるものとして考えられますね。
思いがけずも、阿久悠という人はこういうことを考えてる人だったのかと
知ることになった「明治大学阿久悠記念館」でありました。
