斎宮歴史博物館 の敷地から出ますと、正面にまっすぐ伸びる道が一本。
古代伊勢道 とは違って車も通る道ですけれど、沿道には点々と同じ形の碑が建っているようす。


同じ形の碑が続く「歴史の道」

覗き込んでみれば和歌が刻んでありまして「二四」という番号も。
道を進みながら目を止めると「二三、二二、二一…」と数字が減っていく…ということは
この歌碑は本来逆ルートでたどるものとして作られていたのですなあ。


そこで、実際に歩いたのとは反対に、「一」の歌碑があるところへちと飛んでしまいましょう。
どうやらこの道は「歴史の道」と名付けられているようで、案内板がありましたですよ。


「歴史の道」案内板


最初に見た番号どおりに24首の和歌の碑があり、すべて斎宮に関わる和歌ということでして、
その最初に来るのが、記録に見られる限りで最初の斎王と目される大来皇女の歌でありました。


大来皇女の歌

「万葉集」所載の歌なれば万葉仮名で書かれてますのでパッと見では何がなにやらですが、
読み下すとこのようになるようです。

わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露に我が立ち濡れし 大来皇女

天武天皇の代、伊勢に送り出された娘の大来皇女には恋人がいたのですかね。
いずれにしてもまだまだ斎宮は平安朝の頃のように確立してはおらず、
都から遠く離れた伊勢の地で寂しい思いをしていたのかもしれません。


24首の全てを取り上げては長くなってしまいますのでとばしとばし行くとして、
お次は下世話に申せば斎宮のスキャンダルですなあ。


君や来し我や行きけむ 思ほえず夢か現か寝てか醒めてか 恬子内親王
かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとはこよひさだめよ 在原業平

伊勢物語 」第六十九段で斎王と都から来た狩の使が詠み交わした歌でして、
モデルは清和天皇の代に斎王となった恬子内親王と在原業平 ということで。


「古今集」にある業平の元歌は「こよひさだめよ」でなく「世人さだめよ」だそうですので、
この歌を業平作としては誤りなのでしょうけれど、それはともかくとして、
稀代の色男がどうしたこうしたという話はここでは措いておくことにいたしましょう。


続いても王朝文学がらみでして、
「大和物語」第九十三段に記された話に出てくる藤原敦忠の歌です。


伊勢の海のちひろのはまにひろふとも今は何てふかひかあるべき 藤原敦忠

醍醐天皇の皇女である雅子内親王に長らく心寄せていた敦忠でしたが、
朱雀天皇への代替わりにあたって行われた卜定で雅子内親王が斎王となってしまった。
今や叶わぬ思いとなってしまったことを詠ったということでありますよ。


世にふればまたも越えけり鈴鹿山むかしの今になるにやあるらむ 徽子女王

こちらは斎宮女御と言われた徽子女王の歌ですけれど、自身も斎王であったばかりか、
都に帰って後に授かった娘の規子内親王もまた斎王に選ばれてしまった。
周囲が止めるのも聞かずに、娘の群行に付き添って再び伊勢へ。
難儀の多い鈴鹿の山を「またも越えけり」とはそういうことだったのですなあ。


ちなみに、こうした逸話は先にもちらりと触れましたように「源氏物語」で
六条御息所、そして秋好中宮のモデルとされていったということです。

とまあ、このように斎王に関わる和歌の碑が並んでいたわけですけれど、
それぞれの斎王にはそれぞれの逸話がありますですね。


斎宮というものが歴史に大きな何かしらを残すものであったとは言えないかもしれませんが、
それぞれの逸話はそれなりに興味深いものでもあるような。

その辺りに詳しいのがこの本でありますよ。


斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史 (中公新書)/榎村 寛之

中公新書の「斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史」という一冊です。

斎宮歴史博物館の方が書いたもので、あまり学術的に偏らずまあまあ面白い内容かなと。
斎宮を訪ねる際には旅のお供にちょうどいいのではなかろうかと思いましたですよ。