斎宮歴史博物館 では、大きなスクリーンで2本のビデオ上映を見てきましたですよ。

ひとつは「今よみがえる幻の宮」、もうひとつは「斎王群行」というものです。


前者は「文献史料から斎王の日常生活や勅使の訪問のようすを可能なかぎり再現した実写」、

後者は「群行」と呼ばれた、斎王が都から伊勢斎宮まで向かう旅のようすの再現ですが、

再現性の高さは後者ということになりましょうか。


なにしろ後朱雀天皇の皇女、良子内親王が斎王として伊勢に赴く際、

実際の群行に付き従った貴族の藤原資房が自身の日記「春記」に

旅の経過を細かく記しているということですから。


「斎王群行絵巻」(複製)@斎宮歴史博物館


と、話は群行として旅に出発する前にさかのぼります。

斎王は天皇の崩御や身内の不幸などに遭うとその任を解かれて交代することになりますが、

後任の決定は「卜定」(ぼくじょう)によって行われたとか。


卜甲・卜骨(レプリカ)@斎宮歴史博物館

亀の甲羅や獣の骨を焼いてできたひび割れから神意を読むという占いですが、

展示は弥生時代の発掘品のレプリカながら、これで神意をといっても眉つばものですよね。

展示解説に「適任が出るまで三度もくりかえして占った記録もある」となっては、

なんとも形式的だったというしかないような…。


とまれ、新しい斎王が決まると、まず自宅に籠り、「初斎院」(宮中の一室に籠る)を経て

翌年の秋に「野宮」(都から離れた仮の宮殿、だいたい嵯峨野の辺りだった)へと居を移します。

そして、一年をそこで過ごした翌年の秋、伊勢神宮の神嘗祭に間に合うよう出立するのだとか。

いよいよ斎王群行が始まるのですな。


旅立ちの日には葛野川(現在の桂川)で身を清めた後、

いったん都に戻り、「発遣の儀」が行われます。

元々は天皇が自分の娘を送り出していましたので

(後には斎王に選ばれる範囲がもそっと広がりますが)

「発遣の儀」は愛娘を一人遠くへ旅出させる父と娘の別れの儀式であったようです。


この儀式でのクライマックスが「別れのお櫛」というもの。

天皇が手ずから斎王となる娘の前髪に櫛(幅二寸=約6㎝)を差し、

その後天皇も斎王も互いに背を向けるとどちらも二度と振り返ってはならないということに

なっていたそうでありますよ。


されど、あまりに娘の身を案じてのことか、娘の当子内親王を斎宮に送り出す際、

父親の三条天皇はつい振り向いてしまったのだとか。


後に斎宮から帰京した当子内親王は藤原道雅との道ならぬ恋を父に咎められ、

道雅はお咎めを受け、当子内親王は出家。

掟破りの振り返りはこんな運命に関わっているのでありましょうか…。


斎王群行の発遣を再現したジオラマ@斎宮歴史博物館

それはともかく、かような段取りを経て斎王一行は出立、

これが数百人の同行者を連ねたものでしたので「斎王群行」と呼ばれたのですな。


斎王群行のルート@斎宮歴史博物館

群行に利用されたルートはこんな感じ。

ちと見えにくいですが、左手に大阪湾、右手には伊勢湾。

そして、中央奥に何となく見える琵琶湖の左側、2本のルートの分岐点が京ということで。


基本的に往路は北ルートで近江瀬田から甲賀、鈴鹿山中を抜けて伊勢に至る道筋を取り、

帰路は南ルートで一旦、難波津に抜け禊をしてから京に戻ることが多かったようです。


と、ここで気になりますのは、斎王の役割を終えての帰途、禊をしてから都に戻るというところ。

伊勢に向かうに当たって神聖さを得るために身を清めるのは分かる気がしますけれど、

終わったのなら「もう、いいじゃん」と思ってしまうわけですね。


ところが、事情はそう簡単ではないようです。

伊勢神宮に仕えるということは仏教との関わりを断つということでもあるそうな。

ですから、仏教関係の言葉を発しないよう言い換えの符牒が決められていたというのですね。例えば、お坊さんのことを「かみなが(髪長)」と言い換えたりするそうなんですが、

あまりに分かりやす過ぎる言い換えのような気も。


まあ、かように伊勢の神への奉仕ゆえに仏教を遠ざけた斎王ですが、

一方で天皇始め、神も畏れると同時に仏の教えも信じている中では

仏の庇護を受けられない状態に置かれていた斎王が「普通の皇女」に戻るには

往路とは別の意味で禊が必要だったということになりましょうか。


…というふうに興味は尽きない斎宮歴史博物館でして、

場所が場所なので再訪するかは微妙ながら「また行ってもいいな」と。

斎宮跡の話はも少し続きますが、ともあれ、博物館からまた外へ。伊勢路紀行は続きます。