かつてワシントンD.C.には仕事絡みで一度だけ行ったことがありますけれど、
その際、空き時間を利用して立ち寄ったナショナル・ギャラリーには
キラ星のごとく作品が並んでいたものですから、いつかもう一度行ってやろうと思っておりまして。
でもって、そのときには是非こちらにも立ち寄らねばと考えていたのが
「フィリップス・コレクション」なのですが、ほんの一部の作品とはいえ三菱一号館美術館 で
展覧会開催中…となれば、下見感覚でさくっと見て来ようと思ったのでありますよ。
「全員巨匠!」というキャッチをつけるだけあって、なるほど出展作品の作者を見れば
「おお、なるほど」と思うところながら、元来1921年に開館したという年代からしても
巨匠への道を現在進行形で歩んでいる作家たちの作品であったりもするのですよね。
ですから、事後的に現在からみれば
「この作者にしては、らしさが全開する前の作品かな」というのが結構見られるのでして、
実はそれが面白いなあと思ったものでありました。
例えばモネ の「ヴェトゥイユへの道」。1879年の作品ですので、
1872年作の「印象・日の出」から始まった路線を探究していたのではと思いますが、
まだまだ素朴さが残る飾らなさとでも言いますか、
妙に成熟しないフレッシュな印象派てな気がしたものでありますよ。
陽の当たる照り映えは実際にも色がちらちらとこんなふうにも見えるよなあと思えたあたり、
印象派、とりわけモネをいささか食傷気味にも感じていただけに、
やっぱりじっくり見てみるものだと思ったわけで。
らしさ全開前ということで言いますと、カンディンスキー の「秋Ⅱ」(1912年)もまた。
一見したところでは、あたかもパレットそのものでもあるかというように
色がばらばらに置かれたふうでもありますけれど、タイトルどおりに
「ああ、秋の景色なのだな」と結びつけることが容易なだけ具象的であるわけですね。
ちょうど抽象画に取り組み始めたばかりの頃でしょうから、
こちらもまたひとつの路線を探っていく中での作品、
それが見る側には分かりやすかったり、とっつきやすかったりするのですよねえ。
と、ブラックの「驟雨」(1953年)の方はむしろキュビスムを通り抜けた先の作品ですね。
ブラックと言えば即座にキュビスムと思ってしまうところへもってきて、この晩年作は
ブラックの作品と言われなければ誰のものだかさっぱり…というところでしょうけれど、
ピカソとは全く違う抒情性がある作品であろうかと。
先にピカソの生涯を描いたドラマ
を見たときには当然にしてブラックも登場しましたですが、
ああこういう普通っぽい人、常識人だったのだなあと思ったり。
まあ、ピカソは何人もいりませんしね。
コレクターのダンカン・フィリップスはブラックがお気に入りだったようで、
比較的展示点数も多い中にはやはりキュビスム作品があるわけでして、
その中のひとつ「ブトウとクラリネットのある静物」(1927年)は
キュビスムでのブラックの個性が出ているものでありましょうか。
対象がデザイン化された置かれたさまとその穏やかな色合いとが
あたかも染色デザインでもあろうかと思えたものでありますよ。
(ちょいと前にEテレ「日曜美術館」の再放送で、染色家・柚木沙弥郎の紹介を見たからかも)
ところで、ここまで「らしくない」系に着目してきたようなところがありますけれど、
「いかにも」、「らしい」という作品をひとつ。こちらです。
パウル・クレーの「養樹園」(1929年)という作品でありますが、
古代文字のようなものに埋め尽くされた画面は
自ずと見る側を惹きつけずにはおかないものがあろうかと思うところです。
記号であることから離れれば、整然と木立の並ぶ森の風景にも見えたり、
また記号として見ることに立ち返れば、音楽も得意であったクレーらしく
五線譜でもあるかのようにも見えたりする。
ついつい「果たして作者の意図は奈辺にありや」と考えてしまうところながら、
クレー自身に「作品の意図」はあったとしても、それを見る側には
自由に謎解きしてみてね的に思っていたかもしれません。
そんなふうに作品を通じて想像をめぐらすことや何らか感情を呼び覚ますことが
「芸術」なるものとのふれあいであろうと思うにつけ、クレー作品に捨てがたい魅力を
感じるのでありますよ。
下見なんつう不遜な?動機で出かけたものですから、
わりとさらりと見通してしまってもったいなかったかなと後から思いましたですが、
それだからこそいつの日にかはワシントンD.C.に本物の美術館を訪ねなければいけんと
思うのでありました。


