先日、ボナール展@国立新美術館を見て来たことを書いた際に

ボナール自身と妻マルトの関係にも穿った視線を送ってしまっておりましたですが、

そうしたことになったのも、ナショナル・ジオグラフィックが制作した10回シリーズのドラマ、

「ジーニアス:ピカソ」を見ていたからということになりましょうかねえ。


GENIUS:PICCASO

ご覧のようにピカソ役はアントニオ・バンデラス。

幼くして画家を志して以降(と、幼少から青年期はバンデラスではありませんが)

あれやこれやの後に画家として大成、そして亡くなるまでの生涯を

場面場面の年代を行きつ戻りつしながら辿るドラマでありました。


ピカソは1973年、91歳まで生きていましたので、

ピカソがまだ生きていた時代を共に生きていたことがあるとはいえ、

その名はすでに歴史的な印象がありましたですが、

改めてその生涯に触れますと「ああ、ピカソとはこういう人だったんだあね…」と。


「こういう人」という中には実にさまざまな要素があるわけですけれど、

ひとつには自分の才能を微塵も疑わない(これで失敗する人は大勢いましょうなあ)こと、

もうひとつは女性をどういう存在と捉えていたかという点で

いわゆる常人とは感覚が大きく異なるということになりましょうかね。


ひと言で言ってしまえば「ただの女好き、それもすけこましの類いなんでないの」とも

なってしまいますですが、こういう深読みが正しいのかはわからないところながら

「ただの女好き」とは違うのだろうなあと思わせる。芸術家だからというフィルターごしに

見るからかもしれませんけれど。


体よく言えばピカソにとって女性は「ミューズ」であって、

自らの芸術活動にインスピレーションを与えてくれる存在だったのでしょう。

よりピカソの側から見てみれば、インスピレーションを与えてくれてこその存在であって、

その源泉が枯渇としたと感覚的に察知したときにはもう次の女性に目を向けている。


まだ枯渇しきっていないとしても、新しい刺激が無くては新しい芸術が生み出せんと

自身が思ったらば、同時並行的に別の女性にも目を向けるということになりますな。


しかも質の悪いことに(とは極めて常人の見方ですが)、

同時並行的に女性との関わりを保ちながら、ある人との出会いは間遠になり、

ある人とは頻繁にいう状況が生じながらも、女性の方からピカソを離れていくなどいうことは

彼には理解ができないようで。「別れるって?!俺はピカソだぞ!」てな具合です。


とまあ、かような女性遍歴のある生涯で数々の傑作と言われる作品を残したわけですが、

残された作品はなるほど傑作だとして、人としてどうか…みたいなことを

考えるべきであるのかどうか。


個人的には「べき」と思うところながら、それこそが単に常人の発想であるのかも。

だとした場合に、自らは常人でいっかなと思ったりするところでありますよ(笑)。

つい、先日もアール・ブリュットには適わないと思ったばかりですし。


おそらくクリエイティブであることには何らかの代償が必要なのかもしれません。

その代償のありようはその創造者ごとに大きく異なって一様には言えないでしょうけれど。