ボナール展 を見に行ったついでに、

折しも国立新美術館で開催されていた入場無料の展覧会にふらりと入ってみましたが、

いささか大袈裟な物言いにはなるものの、いやはや、打ちのめされた感がありましたですなあ。

予備知識のかけらも持ち合わせずに覗いたその展覧会は「ここから3」というものでありました。


「ここから3」展@国立新美術館

「障害・年齢・共生を考える」をテーマとして、アートを通じて共生社会を考える機会となるよう

企画された展覧会ということでしたですが、何よりも障害のある方々が制作された作品に

「がつん!」と食らわされた気がした、とまあ、そういう話でありまして。


例えばですけれど、レゴのピースがたぁくさん置かれてあるところで

「どうぞご自由に」となったときに、まずもって「何を作ろうか」と考えてしまう。

そして、作り上げていくに従い、細かいところで作ろうと考えたものに近づかないなと思う。

(何せレゴのピースで滑らかな曲線を描き出したりするのはできませんものねえ)

そして、なんとか作り上げたものに自らも満足していない。

となれば、ましてやそれを目にする第三者がいたとして「ほう!」と思ってもらえるはずもない。


全部が全部、誰にも「そうそう」と当てはまるものではないにせよ、

ごく普通に想像するとそんな様子を思い浮かべてしまうところながら、

展覧会で目にした作品からはおよそそういう側面を感じないのですよね。


アート作品を制作する素材が与えられたとして、まず「何をつくろうか」とは

何らかの形(モノであるとか、動物であるとか)をイメージしてそれに近づけることが

完成に近づくと思うことだったりしますが、そこでの作品にはそもそも「何をつくろうか」が

無かったりするのではと思うのですよね。


ですから、何かしらの形に近づけなければならないという縛りがありませんので、

とてもとても自由な造形だったりするわけです。で、描いてみたら後付けに何かに似ているから

それをタイトルにしようかとか。


あるいは全く逆に、何かしらをタイトルに描き始めはするも、

写真などで見るようなリアルさから自由に離れた描出をするとか。


普通に「サルはこういうものだ」という認識がありますから、

例えば「サル」というタイトルに接したときに予め持つ認識に近い形を伴っていないと

「はて?」となったりしますが、「サル」というタイトルが必ずしも「サル」の外見を写し出すとは

限らないということを忘れているのですよねえ。


色遣いにしても、空は青、木は緑とか、そうした常識的な?受け止め方に

染まり切っているのとは違って、全く自由な色遣いでもって目の前に提示されるのですなあ。


また、細かな部分へのこだわりが並大抵ではないものがある。

やっぱりにふつうに(?)常識的に(?)考えると、そこまでやるかあと思ってしまいますが、

「そこまでやるか」と考えてしまう背景には、労力とか時間とか効率とかそんなことを

考えてしまっているのだろうと思うわけで。


ここではたと思い当たることは、「ふつうに」とか「常識的に」とか言った「ふつう」や「常識」、

つい考えてしまう「労力」やら「時間」やら「効率」やらと言ったあたりから

自分は全く離れられないでいるのだなということなのですよね。


以前にも引いたことがありますけれど、Wikipediaでは「芸術」を「表現者あるいは表現物と、

鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動」といってます。

作品を見る側と見られる側との相互作用が何らかの変化が生まれるとして、

おそらくはふつうで常識的なものが労力や時間を厭い、効率優先で作り上げられたとき

そこから感興が生じる可能性は極めて少ないでしょうなあ(皆無とはいいませんが)。


自由に生きていると思っているところが、ふと気づいてみればいろんなことに縛られている。

そうでないありようには(別の意味でさまざまな制約の中に置かれてもいることと思いますが)

思いがけない感性の発露があると感心しきりになったりするのでありますよ。


白い紙を目の前に置いて、まずひと筆をおろせない。あれこれ考えてしまうばかりで。

つくづくアートの表現者にはなれんなぁと、改めて思い知らされたのでありました。