シェイクスピア
の四大悲劇と言えば、「ハムレット
」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」。
ですが、「ハムレット」はどうも他の3作品に比べて、その悲劇性がぼんやりしているような。
そんな思いもあって先日ケネス・ブラナー版の映画「ハムレット」を見たのですが、
4時間を超える長尺の中でケネス・ブラナー演じるハムレットが速射砲のように喋り続けるあたり、
金髪の容姿であったことも手伝って、スティーヴ・マーティン
が演じるコメディー映画を思い出して、
反ってどう受け止めたらよいものやらと…。
そうはいっても、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」とか「尼寺へ行け」だとか
広く知れわたる台詞もあれば、ジョン・エヴァレット・ミレイ
の「オフィーリア」などのように
由来の絵画も制作され、また音楽の源にもなっていたりするからには
「ハムレット」は名作なのでありましょう。
おそらくは読みが足りないから気付くこともないのと、そこでここはひとつ解説に頼ることに。
手にとったのはちくま学芸文庫の「謎解き『ハムレット』名作のあかし」でありました。
読み終えて思うところは「そういう芝居だったのだあね」という思い。
「ハムレット」を単なる復讐劇と見るのがそもそもの誤りのようですなあ。
だいたい復讐劇と見た場合には、さっさとクローディアスを片付けてしまえばいいのに
ああでもない、こうでもないとハムレットは煮え切らない。
ただ、その煮え切らなさがゲーテ
の「若きウェルテルの悩み
」などとも通底すると受け止められ、
悩める若者としてのハムレット像が作り上げられたりすることにもなったような。
では、復讐を描くのでは無くて
悩める若者を描いているのが「ハムレット」であるかというと、そうでもないようなのですなあ。
先にも触れた有名な台詞「To be, or not to be. That is the question」が
「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」と提示されることで
日本ではなおさら誤解されやすくなっているかも知れません。
本書にはこのようにあります。
理性と熱情のジレンマがここにある。つまり、ハムレットは決してアンニュイな気分で自殺しようかどうしような迷っているわけではないのだ。彼の心の内には悲しみや怒りなどのつらい思いが激しく沸き立っているのであり、それを抑えるべきか、爆発させるべきかと悩んでいるのである。
理性的に生きることと熱情に任せて復讐に及ぶ(結果自らも死ぬことになるかもしれない)こと、
その間での葛藤、つまりは人間としての普遍的な生き方の問題であると思ったらいいのでしょうか。
そして、シェイクスピアは(他の作品でも多々見られるようですが)人の「行動」を考えるときに
「何かを思いつき、それを想像し、実行に移すという〈行動の三段階〉」で捉えていたようでして、
「ハムレットという長い芝居は、この「中間地帯」(行動の第二段階)を描くドラマ」、
すなわち復讐に思い至ってはいるものの、実行する手前の想像、
イメージトレーニング段階での葛藤こそが主題であるというわけなのでありますよ。
ところが、そうなると結局のところ悩める若者像との違いが分かりにくくなってしまいますけれど、
若者の悩んでいる姿を見せる芝居ではなくして、その相克自体を考えさせる芝居なのかもです。
(シェイクスピア当時の人たちはそのような読み取り方がすっとできたんでしょうか…)
とまれ、ハムレットがこの「理性と熱情のジレンマ」に陥っていると考えれば、
オフィーリアに対して「尼寺へ行け」といった言葉を吐くのも「なるほど」と思えてきたりもする。
その辺りの説明までここに持ってくるよりも、本書に直接当たってもらった方がいいですね。
「そうであるか…」ということにいろいろ出くわせますから。
ひとつだけ触れるならば、
父王が亡くなったときにそもそもハムレットが何故跡を継がないのかという点。
これは当時のデンマークでは世襲は絶対ではなく、周囲の支持があってこその
王位継承だということが肝心なのであるという。
もっともそうだと知ってみると、逆にハムレットには支持が集まらなかったことになり、
支持されない何かしらの理由があったようにも思えてきてしまうので、困った問題ですが…。