続くときは続くものでと申しますか、先週の「イーゴリ公
」に続き、
またMETライブを見てきたのでありますよ。
演目はマスネ作曲の歌劇「ウェルテル」。
タイトルで想像がつくのではと思いますが、
ゲーテの「若きウェルテルの悩み」をベースに作られたオペラなのですね。
それにしても、マスネという作曲家はきれいな音楽を書きますね。
そしてまた、ドラマの状況に応じて「いかにも」な音楽を。
音楽ばかりが目立つでなく、かといって単なる添え物よりは主張している…
いい意味で極上のサウンドトラックてなことにもなりましょうか。
もちろんオペラですから
劇伴の部分だけではなく登場人物たちに配された歌があって、
取り分け主人公ウェルテルとその相手方であるシャルロットに振られた部分には
歌い手としての見せ所もしっかり用意されているという。
この主役二人を演じているヨナス・カウフマン(ウェルテル)とソフィー・コッシュ(シャルロット)は、
これまでにパリでもウィーンでも同じ組み合わせで好評だったそうな。
それだけに、METライブがリアルタイム配信されているらしきドイツ・オーストリア圏では
入場者が100万人を超えた!てな話が幕間解説の中で紹介されるほどに
公演の期待度は相当のものだったようですね。
聴いてみれば確かにこれまで見たMETライブの中でも(といって、さほど多くないですが)、
指折りのものではなかろうかと、オペラ素人にも思えたものであります。
…と、褒めておいてから落とすわけではありませんけれど、
要するにゲーテが書いた「若きウェルテルの悩み」から作られたオペラながら、
マスネの歌劇「ウェルテル」は別物と思った方が良いのではなかろうかということなんですね。
ゲーテの原作はかなりウェルテル側ワンサイドの話と思われるわけでして、
ロッテ(オペラのシャルロット)の側もふと自分の意識・無意識で揺れるところがあるにしても、
それでもやっぱり話はウェルテルの動きをなぞって進みますですね。
これがオペラになると、
ロッテから遠ざかること止む無しとなったウェルテルが旅だった後の第3幕でしたか、
主人公ウェルテルはほとんど出番がなく、旅先から送られたウェルテルの手紙を読み返しては
憂いに沈み、思い乱れるロッテの姿が描きだされるのでありますよ。
ここでやおらですが、先に読んだワシントン・アーヴィングの「スケッチ・ブック」 から
「傷心」というエッセイの一部分を引用してみます。
打ちあけて言えば、わたしは、人が失恋して心が傷つき、命を絶つことさえあると信じるのだ。しかし、わたしはそのような恋わずらいが男性にとっては致命的になることが稀れだと思う。ただ、多くの美しい女性が、若くして力が萎え、そのためにあの世に旅立たねばならなくなるとかたく信ずるのである。
アーヴィングの「スケッチ・ブック」は1820年刊行で、
当時の知識人(?)の女性観(反面、男性観)を物語っているように思います。
アーヴィングはなぜ男性が女性のような事態に陥らないかと、これに続けて語ってますけれど、
男性には公的な側面(例えば仕事であるとか何とか)があって忙しく、
またいろいろと気を紛らすすべがある、これに対して女性は…というわけなのですね。
ですが、これは男性側のつっぱりでもありましょうか。
恋に破れたくらいでシャキッとしていられないようでは、いっぱしの男と言えない!みたいな。
ですから、本当のところは露わにしにくいけれども、男性の側にも本音がある。
それをあからさまにしてまったのが、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」だったとも言えましょうか。
時に1774年ですから、アーヴィングの「スケッチ・ブック」よりも50年近くも前に示してしまった。
人間はギリシア・ローマの彫像のように均整のとれた完璧な肉体ではないし、
内面においても同様…とすれば、感情を素直に表出することは果たして悪いことなのか。
ゲーテは若い男性なら誰しも身に覚えがあるでしょうと問いかけたわけですね。
「そうだ、そうだよ、おいらも、おいらも!」となったのは当然であったのかもしれません。
先に見たアメリカ映画
ではありませんが、
その後現代に至って「くよくよ」は男性の専売特許にでもなった感があるものの、それはともかく、
マスネのオペラではウェルテルの側からもロッテの側からも描くことで、
ゲーテが用意した意味合いは無くなり、失礼ながら単なる悲恋ドラマに
なってしまったのではないかと。
まして今回の新演出ではウェルテルの死を見とったロッテ(原作には当然無い場面)が
その場にあったピストルを手にして、あたかも後追いするかのような仄めかしを見せて
暗転となる幕切れなのですから。
まあ、とやかく言いましたけれど、オペラとした見た場合には
マスネの美しい音楽に彩られた素敵な作品であることは間違いないと思いますけれど、
期せずしてゲーテの原作の意味合いを考えることになったのは、
思わぬ余録と言っていいかもしれませんです。