東京国立近代美術館フィルムセンター を覗こうと思ったものですから、

中央区京橋へと出向いたわけですが、今では川も橋もないところに

名残り(もはや残骸というべきか)だけがぽつんとしている様はかねがね気になっておりまして、

この際じっくり解説板などを読んでみようかと思ったのですね。


2015年現在の京橋


これが2015年現在の京橋(のあったところ)で、
方向的には銀座側から日本橋に向かって見たところになります。


一般道の上で首都高が交差しているだけの景色になってますけれど、
かつてここには京橋川を跨ぐ京橋が掛かっていたおり、なかなかに賑わった場所であったらしい。

その架かっていたであろう橋の四隅のたもとの辺りを、いざ探索してみますと
いささかなりとも往時を偲ぶことができたのでありますよ。


とまれ、その前に…ですが、さりげなく「京橋川を跨ぐ京橋」と書きましたですが、
これはいつぞや「日本橋川を跨ぐ日本橋」に怪訝な思いをしたのと同様でして、
川があるから橋を架けるのが自然の道理と思えるながら、
橋の名が冠された川っていったい?と思うのですよね。


江戸の昔には水運やら何やらで水路、運河がたくさん開削されたのでしょうけれど、
それにいちいち名前を付けてはおられず、便宜上橋の方のネーミングが先んじてしまい、
川にも名前が無いと…思い至ったとき、もはや一定の知名度を持つに至っていた橋の名を

被せてみた…てなところでしょうか。


確かに「京橋」というのは東海道を京に向かうための入口の橋てな意味のようですから、
(大阪の京橋も同様の意味かと思いますが、発音する際のイントネーションは全く異なりますね)

ということで、由緒ある橋の名をもって川の名前にもしてしまったのでしょう。

何しろ日本橋同様にそもそもの創建が慶長八年(1603年)とは幕府を開いて早々、

お江戸の中でも由緒は抜きん出ていたのではと。


と、それはともかく四隅の話。
まず、上の写真では手前(銀座寄り)の左側隅にはこのようなものがありまして。


明治期の京橋・親柱


かつての京橋の親柱だそうで、

擬宝珠を戴いて「きやうはし」と書かれているのが時代を感じさせるところ。
さすがに江戸期のものではありませんで、明治8年(1875年)、
石造のアーチ橋に生まれ変わった際のものであるとのことです。


で、いちばん上の写真でやはり手前(銀座寄り)の右側隅に目を転じますと、
こちらにはこのようなものが目にとまります。


大正期の京橋・親柱とガス灯


明治以降、交通の混雑化は加速度的に進んだものと思いますが、拡幅の必要からか、
大正11年(1922年)に架け替えられた際の親柱があたかも燈台のような佇まい。
解説板には「照明設備を備えた近代的な意匠」とありますが、
当時としては最先端のモダンさだったのかもしれませんですね。


ただ照明設備のそばにガス灯 があるというのも変な話ですが、
こちらはこちらでたまたま親柱のすぐ脇に建てられた「煉瓦銀座之碑」付属のものであるような。


煉瓦銀座之碑


明治5年(1872年)の「銀座大火」とも呼ばれる大火事は、説明書きに曰く
「銀座は全焼し、延焼築地方面に及び、焼失戸数四千戸と称せらる」という大災害に。


東京府知事であった由利公正(元福井藩士)が耐火性の高い建築を企画建策し、
「政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す」、
これが銀座の煉瓦街といったいうわけですなあ。


明治期の京橋・親柱(別バージョン)


で、四隅の残り2ヵ所ですが、向こう側(日本橋寄り)の右手には
明治期の親柱がもうひとつ(漢字で「京橋」と書いてあります)あるだけながら、
左側の方にはちょっとした歴史が刻まれているのでありますよ。


「京橋大根河岸青物市場蹟」碑


ひとつには「京橋大根河岸青物市場蹟」という碑でして、
どうやら水利、地の利からこの京橋の地に自然発生的に青物市場ができあがったのは
寛文(1661~1672)の初めのことと言いますから、江戸も初期でありますね。


取り分け「大根の入荷殊更夥し」ということで、いつしか「大根河岸」と呼ばれるように。
それが営々二百数十年続いたものの、昭和に入って築地市場開設にあたり、
統合の已む無しに至った…てなことが、格調高い?文語調で碑に刻まれていました。


「史蹟江戸歌舞伎発祥之地」碑


そして、もうひとつは「史蹟江戸歌舞伎発祥之地」の碑。
「元祖猿若中村勘三郎中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ

 これ江戸歌舞伎の濫觴也」と刻まれた江戸歌舞伎の発祥は

寛永元年(1624年)のことであったと。


歌舞伎 と言えば(先日TV「古典芸能への招待」で見たような)いわゆる芝居を想定するも、
その始まりは猿若舞となると、踊りなのでしょうね。

確かに碑のレリーフを見ても「こりゃ、舞だ」と。


猿若舞?


ここまでのことは全て京橋のたもとをうろうろしただけですが、ちょいとおまけを。
京橋を日本橋方向へ進んで八重洲の大通りにぶつかる手前を裏道に入り…、
ざっくり言ってしまうと今はすっかり工事中のブリヂストン美術館 の裏手のあたり。
ここにも実にさりげなく目立たない解説板がありまして。


中央区京橋の裏道


何が解説されていようと全く面影無しと見えるところですが、「歌川広重 住居跡」だそうで。
嘉永二年(1849年)に越してきて亡くなるまでの10年ほどをここで暮らし、
「名所江戸百景」を手掛けた場所でもあったということでありますよ。


「歌川広重住居跡」解説板


お隣には江戸狩野 四家の中橋宗家が屋敷を構えていたそうですから、

絵師として近所付き合いがあったのかどうか・・・。

何もかも今は昔のことなれど瞼を閉じて古えぞおもふ…てなところでしょうかね。
おっと、フィルムセンターのお話はまた改めて。


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