岩崎には三菱一号館美術館 があり、三井には三井記念美術館 があり、
住友には泉屋博古館 があり…ですが、住友の泉屋博古館は京都にあって
東京のは分館ですから、実にこぢんまりとしておりまして。
そのせいか、いつ行っても来場者が少なく、
じっくりゆったり見て廻るには実に好都合なのですね(館にとっては不都合でしょうけれど)。
で、ただいま開催中の展覧会は「フランス絵画の贈り物」というタイトルで、
そこに「とっておいた名画」と副えられている。
「とっておきの名画」という表現なら聞き覚えもあろうところながら、「とっておいた…」とは。
住友コレクションとして(出し惜しみして)「とっておいた」ということなのやもしれんと思えば、
まさになかなかそこらに貸し出されて目にする機会がないのかもと思うわけでして
(この辺り、作戦かもですが?)出かけてしまったような次第。
それにしても、和モノ、唐物の展示が多い美術館となれば、
コレクションの主体が本来的にそちら系とはいえ、ここに展示されたフランス絵画は
いささか地味ながら山椒風味(小粒でぴりり)の作品たちではないかと。
倉敷・大原美術館のコレクションが児島善三郎の眼鏡に適った買い付けで出来上がったように、
住友コレクションの洋画もまた、画家の鹿子木孟郎によって買い付けられたものだそうな。
鹿子木の留学費用を住友で面倒を見る代わりにフランスで買い付けに当たってもらったようですね。
パリではジャン=ポール・ローランスに教えを請うた鹿子木だけに
アカデミスム系の作品に目をつけていたようですけれど、1901年当時のパリは、
かつて舌鋒鋭く印象派あたりを批判したアカデミスムも時代遅れ感ひとしおだったのではないかと。
ですから、ひとくちにアカデミスムと言っても
さまざまな個性、味わいが滲み出ているというか、そうでないと相手にされないというか。
そういう時代に入っていたのかも知れませんですね。
さて、展示の最初を飾っていたのが
ジャン=ジャック・エンネルの「赤いマントの女」(制作年不詳)なる作品。
頭を斜めに切る赤い万とのシャープな線とは対照的に、
奥へ向かって強まるぼかしが実に決まっている。
むしろ象徴主義的な深読みをしたくなるところですけれど、実のところここでの展示は
象徴主義やラファエル前派
との関わりを忘れてはいけない作品たちなのではないでしょうか。
エドモン・フランソワ・アマン=ジャンの「裸婦」などはまさしくの一枚でしょうし。
この後、展示はさらに新しい時代へ進みますが、その中ではヴラマンクの「風景」にお!っと。
フォーヴ
の画家としてその塗りの厚みは特徴的だと思うものの、
ここに描かれた風景は厚塗りを敢えて避けたのでしょうか。
色遣い的にはまさしくヴラマンクなだけに「珍しさ」が先に立ちますが、
「いい雲、描いてんなぁ」とも。
ヴラマンクは(個人的お好みだけに)多少贔屓目で取り上げてしまうところがありまして、
もそっと進んだ先にはまたもお好みのベルナール・ビュフェが3点ほど。
「文字」であったら金釘流かとも見える力任せに強い直線は
精神的な安定をいささか損ねるかとも思えてくるところながら、
そのインパクトの強さを考えば、決して素通りはできないですよね。
そうした中での「花」(1964年)という一枚は大きなキャンバスに描かれてはいるのですが、
左側のチェス盤が折りたたみ式で中に駒を収納できる普通の大きさのものだとすれば、
ずいぶん拡大して描いたものだなと。
あたかもどこかへ通じる扉のようでもあり、
奥行きの立体感を考えると不安定になる気分が弥増すところ。
ですが、一方で右側に描かれたダリヤの花の一片一片の盛り上がる存在感が
ぐっと現実に引き戻してくれるような。いずれにせよ、くらくらくる一枚でありますよ。
最初に小粒といったわりには盛りだくさん感ありですけれど、他にも有名どころの画家でいえば、
ミレー、マネ、モネ、ルノワール、シニャック
、ボナール、ルオー、ドラン、ピカソ、ユトリロ
、
ローランサン
、シャガール
、ミロ…と、点数は少ないながらもどれもこれも「見せる」作品の数々。
「とっておいた」というだけのことはありましょうかね。