あまりに宣伝で煽り気味では?と思えたものですから、
「どうしたもんだろうなぁ」と思案をしとりましたですが、
あんまり見る機会もないのかなと出向いた三菱一号館美術館、
フェリックス・ヴァロットンの回顧展が開催されているのですね。


「ボール」~ヴァロットン展@三菱一号館美術館


宣伝云々というのは、
例えば展覧会タイトルに添えられた「冷たい炎の画家」といった言い回しが
狙った感ありありのキャッチーさ(冷やしたゴッホかいねと…)ですとか、
作品を取り上げてやたらに「こいつは謎ですよね」というようなところとか。


例えばですが、フライヤーに使われている「ボール」(1899年)という作品では、
前景のボールを追いかける少女と画面奥に小さく配された二人の人物が
「奇妙に歪んだ視点」で描かれていて、それが「言いようのない不安感を醸し駄だしているという。


個人的にはそんなに奇妙だと思いませんし、
不安感というよりも無邪気な孤独感といった方がしっくりくるような。


夏休みの校庭。
暑い盛りに部活も休みながら、ただ一人黙々とボールを追う姿がひとり。
彼OR彼女は自身の孤独感に気が付いているのかどうか。
全く思いを致すこともなく、ひたすらにひたむきに練習に励んでいるのか。
あるいは漠たる気付きを振り払うべく無心を求めているのか…てな感じで。

(何だか村下孝蔵を思い出してしまいまそうですが…)


宣伝文句に乗せられまいと思いながら、
しっかり謎解きめいたことをし始めてしまう…やっぱりヴァロットンには
そうしたところがあるようですね。


ただし、見方は決して一様ではないわけですが。

画風をカテゴライズすると「ナビ派」ということになるようでして、
確かにボナールなんかを思い出したりもするところですけれど、
ヴァロットンの個性としては、素描を重視していたということでもあるようです。


修業時代には、ドイツ・ルネサンス期の画家たち、
デューラーやホルバイン、クラナッハあたりの作品をずいぶんと模写したようです。
そして、アングルの作品に感激して同タイトルの作品を制作したり。


アングルと同タイトルの作品「トルコ風呂」(部分)


同時期(ヴァロットンの生没年は1865-1925)の画家たちが
色彩への指向性を強めたのとは異なる独自の方向性とも言えましょうか。

ただ、それだけだと何やら保守的なふうにも受け取れるところかと思いますが、
作品を見ていくと「こりゃあ、モダンな!」との思い、しきり。


上のフライヤーは見開きになっていて、「ボール」の反対側の面、
「赤い絨毯に横たわる裸婦」(1909年)をご覧くださいまし。


「赤い絨毯に横たわる裸婦」~ヴァロットン展@三菱一号館美術館


この作品に関しては、
あたかも「グラビア・ヌード写真」のようとの解説に賛成であります。
それも、おっさん向け週刊誌の袋とじ扱いの類いではなくして、
女性の肢体を「美」と捉える明るく健康的なエロスとでもいいますか。


とまれ、このポーズの取らせ方は(それまでの)画家のというより、
(その後に登場する)写真家のリクエストを思わせますですね。
ヴァロットンは「構図」という言葉だけでは収まらないものを描こうとしたのでありましょう。


それだけにデザインに傾斜していると思しき作品もまま見られるわけで、
その自由さ具合はとても保守的とは言ってもおられんでしょうねえ。


実は「秋」という作品はさらにグラビア的ですけれど、
ちと「おっさん向け、入ってる?」っぽいので、ひと言ふれるだけ。


とまれ、そうしたヴァロットンの作品はひと括りにこうだとは言いがたいところがありますが、

とりあえずデザイン重視で印象に残ったところをひとつふたつ。


フェリックス・ヴァロットン「月の光」(部分)


フェリックス・ヴァロットン「ワルツ」(部分)


他のいろいろな作家作品との似たところをあれこれ思い浮かべてしまうところですけれど、

そうした点もお楽しみのひとつではありましょう。


という具合に面白く見てきたヴァロットン展すが、
「ナビ派」がらみの参考出品?で同館所蔵のドニ作品が展示されているのを見、
好みではこっちの方だな…てなことを再認識してしまったりも。

これはこれで、行った甲斐があるといっていいのかどうか…。