これまた昨日で会期終了の展覧会のことで恐縮ながら、
三井記念美術館 で「三井の文化と歴史」なる展覧会の後期展を見てきたというお話。


わざわざ後期展とことわる言われは、

展覧会の会期を分けて前期と後期で多少展示替えがあるようなのはままあるところなれど、

この展覧会は前期と後期と展示内容がガラリと様変わりするというもの。


ちなみに前期は「茶の湯の名品」が並んだということで、展覧会タイトルの文化の側面でして、
一方の後期は歴史の方、「日本屈指の経営史料が語る三井の350年」というものでありました。


「三井の文化と歴史」展@三井記念美術館


もっとも、自ら屈託もなく「日本屈指」と銘打ってしまうあたりからしても、
多くの企業博物館などの展示にもあるように(当然でもありながら)手前味噌的だということを
予め覚悟しておく必要はありましょうね。


ところで、先日に中小企業やら個人商店やらの頑張りを応援 したいようなことを書いたばかりで
そうしたあたりとは全く異なる大企業グループに目を向けるというのも「おや?」ではあります。


ですが、考えてみると、というより展示を思い返してみれば、

かつての三井財閥、今の三井グループと呼ばれる企業群も
始まりは小さな個人商店であった…ということには目を向けていいのかもですね。


今でいう三井グループの礎を作ったのは、三井高利という人物。
1622年生まれだそうですから、江戸初期の人物ということになりましょうか
伊勢松坂の商家「越後屋」で、8人兄弟の末っ子として生まれたのだとか。


越後屋の屋号は、高利にとって祖父にあたる高安が元は近江の武士で、
「越後守」の名乗りがあったところから来ているとの言い伝えだそうで。


兄弟が多いだけに、まして末っ子ともなれば我が道は自分で切り開かねばならなかったか、
14歳で江戸に出て(地元で競合しないようにでしょうか)、

兄の店で働いた後に独立を果たすことになりますが、
一端は松坂に帰っていたりもしたようです。


お江戸日本橋に店を構えるのは1673年(ずいぶんと時間が経ってますが)。
日本橋本町に開いた呉服店は間口九尺(約2.7m)だったそうですから、
まさに先ほど言った「最初は個人商店だった」という言葉どおり。


ですが、「商売以外の道楽は不要」と商いに打ち込んだ高利は
やがて現在では三井本館と三越とが通りを隔てて向かい合う日本橋駿河町に移り、
徐々に店を大きくしていって、最大で三十六間(約65m)の長大な間口を誇る大店にするのですなあ。


呉服店としては、世に有名な「現金掛け値なし」というモットーで定価販売を実施し、
売り買い交渉に気後れする素人にも買い易い商売を展開して、大当たり。


その傍らで起こした両替商の方でも1690年には幕府の御用商人となり、
以降、呉服(越後屋)と金融(三井両替店)は三井の2枚看板となっていったのだそうです。


景気の波に翻弄される側面はあったにせよ、大店として幕末を迎えた三井では
従来からの幕府御用の他に薩摩藩との関係構築もしっかり行っていたといいますから、
がっちりしているというのか、したたかというのか。


そうした世渡りの結果として、明治となった暁には
ただちに新政府の御用商人となることができたのだそうでありますよ。


されど、世が明治となりますと(という想像どおりと考えていいのかどうかですが)、
本業の呉服店が不振に喘ぐところとなり、政府介入で呉服部門の切り離しを命ぜられることに。
(表向きの切り離しでしのいだようで、三越はやっぱり三井ですものね)


とまれ、これによって三井の中核は1876年に日本初の私立銀行として誕生した三井銀行、
井上馨らが設立した千収会社の事業を継承して同1876年にできた三井物産、
そして払い下げを受けた三池炭鉱などの採掘を行う三井鉱山ということに転じていったそうな。


企業グループはだんだんとその裾野を広げていくわけですけれど、
幕末の海運業に始まる三菱とはずいぶんと歴史背景が異なりますね。


今でも「組織の三菱」「人の三井」などといったことが言われたりもしますが、
企業風土の違いは全く無いとはいえないものの、こうした歴史背景の違いといったものが
どれほどに関与しているのかは、もはや言いがたいところでもあるような。


それでもやっぱりあるような気にさせるところで、
あたかも「血液型」のようなものかもしれませんですね。
個人的にはかつて十数年、三井系企業で働きましたけれど、どうやら血は薄そうで…。