イ・スンマン政権の長期政権と4·19革命

  韓国は南北分断と韓国戦争で経済混乱が続いた。 特に戦争によって産業生産施設が大部分破壊され大きな打撃を受けた。 イ・スンマン(李承晩)政府は、戦争以前に行った農地改革を続けて進める一方、アメリカの援助物資に依存し、製粉ㆍ製糖ㆍ繊維などの消費財工業を発展させた。

  一方、イ・スンマン政府は北朝鮮の脅威から国を守るという名分の下、長期執権を試みた。 これに対抗して、学生を含む国民が民主主義の実現を掲げて自由党政権を崩壊させた(4·19革命)。 しかし、4·19革命で樹立されたチャン・ミョン(張勉)政府の民主党政権は国民の統一と民主化の望みを実現することもできないまま、5·16軍事政変(1961)で崩壊した。

 

4.19革命(1960) イ・スンマン政府の不正選挙で触発された。

 

韓国の経済開発と維新体制

  軍事政変で権力を掌握したパク・ジョンフィ(朴正煕)政権は、1960年代初めに経済開発5ヵ年計画を推進した。 その結果、韓国経済は1960年代後半から年10%以上の経済成長率を達成した。 このような経済成長の原動力は外国の資本と技術、国内の安価な労働力に基盤を置いた輸出主導型経済政策だった。

  1970年代には国家政策により鉄鋼ㆍ造船ㆍ機械などの重化学工業が発展した。 しかし、重化学工業に対する過度な投資と第2次オイルショックで1970年代末、韓国経済は再び困難に直面した。

  一方、パク・ジョンフィ政権は経済開発を名分に3選改憲を断行し、長期執権を試みた。 続いて1972年10月、非常戒厳を宣布し、国会を解散して政治活動を禁止した後、いわゆる「10月維新」を宣布した。 そして憲法を改正しすべての権力を大統領に集中させた維新憲法を公布した。

  これに対抗して在野人士と学生を中心に緊急措置*の撤回とパク・ジョンフィ政権の退陣を要求する民主化運動が展開された。 特に1979年10月、釜山(プサン)と馬山(マサン)、昌原(チャンウォン)などで維新体制に抵抗する学生と市民による大規模示威が起きた(ブㆍマ民主抗争)。 そしてこれに対応する政権内部の葛藤で10月26日、パク・ジョンフィが殺害された。 これにより維新体制が崩壊し国民の間に民主主義への期待が広がった。

 

* 緊急措置 維新憲法に規定された大統領の権限である。 国家の安全保障や公共の安寧秩序が重大な脅威を受けたり、財政的ㆍ経済的危機に直面した時、大統領が国政全般にわたって下した特別措置だ。 国民の自由や権利の一部を制限したり政府ㆍ国会ㆍ裁判所の活動を制限したりした。

 

ポハン(浦項)合製鉄 ポハン綜合製鉄は韓日国交正常化をきっかけに日本政府から受けた無償借款を根幹に建てられた。 その後、重化学工業の中核として成長した。

 

韓国民主主義の発展と経済成長のまた別の岐路

  維新体制が崩壊した後、新軍部が1979年12月、兵力を動員して軍事権を掌握した(12·12事態)。 これに対抗して学生と市民は「維新憲法廃止、チョン・ドゥファン(全斗煥)退陣、非常戒厳撤廃、民主的手続きを通した民間政府樹立」などを要求し、全国各地で示威を行った。
  そこで新軍部は非常戒厳を全国に拡大し、一切の政治活動を中止させた。 すると5月18日、クァンジュ(光州)で市民と学生が非常戒厳の拡大に抵抗する大規模示威を起こし、市民軍を組織した(5·18民主化運動)。 戒厳軍は武力で市民軍を鎮圧し、この過程で多くの市民が犠牲になった。
  しかし、民主主義に対する国民の熱望は高まった。 1980年代半ばから、学生だけでなく政界や社会各界各層が参加した民主化運動が展開された。 1987年、パク·ジョンチョル(朴鍾哲)君拷問致死事件が明らかになり、市民と学生たちは政権の弾圧にもかかわらず、屈することなく6月民主抗争を繰り広げ、その結果、大統領直選制改憲を果たした。
  一方、1980年代の韓国経済は低油価ㆍ低ドルㆍ低金利安という3低好況に支えられ成長した。 このような経済成長に支えられ、韓国は1990年代に経済開発協力機構(OECD)に加盟し、企業は投資拡大と事業拡大に没頭した。 その後、経常収支赤字の累積と外債の増加により1997年に外換危機(IMF事態)が発生し、深刻な景気沈滞を経験するようになった。 しかし、政府の改革と国民の積極的な参加によって困難を克服し、韓国経済は再跳躍の足場を築いた。
  経済成長により、韓国は援助を受ける国から援助する国に変わった。 しかし、世界経済の急激な変化の中で2000年代後半の金融危機を経験し、韓国経済は新しい挑戦に直面した。

 

5·18民主化運動(1980)

 

東アジア史百科 : 6月民主抗争

  1985年1月18日、統合野党として創党した新韓民主党は、2月12日に施行された第12代国会議員総選挙で、国民の熱い民主化熱気に支えられ、大きく躍進した。 1986年初めには軍事独裁退陣促求と民主憲法争取ための汎国民署名運動が始まった。

  チョン・ドゥファン政権はあらゆる手段を使ってこれを弾圧し、この過程でパク・ジョンチョル君拷問致死事件が起きた。 これに対し国民は大統領直選制改憲など民主化を要求し、政府は「護憲」発表で対立した。 しかし、国民の支持を受けた改憲要求示威は、6月に入って全国に広まった。 結局、政府は6月29日、直選制改憲を骨子とする時局収拾方案を発表した。

 

6月民主抗争(1987) 「直接改憲爭取して、民主政府樹立しよう」と書かれている。

 

台湾の経済発展と民主化

  中国共産党との内戦に敗れて台湾に渡った蒋介石国民党政権は、1949年以降続けて戒厳統治を行い、経済開発に力を注いだ。 1950年代初期には通貨改革とともに緊縮財政政策を施行した。 さらに、輸出による外形的発展よりは、国内市場の開発や軽工業中心の輸入代替政策に重点を置いた。 また、民生の安定と長期的経済発展のため、農業部門の育成を最優先課題に設定し、大々的な農地改革を通じて土地を得た農民の生産意欲を高めた。 その結果、台湾は工業発展のための基盤を固めることができた。

  台湾は経済建設4ヵ年計画を順次施行し、電力ㆍ肥料ㆍ紡績ㆍ製鋼ㆍ製糖産業を積極的に育成した。 1965年にアメリカの経済援助が打ち切られた以後、輸出促進政策を強力に進めてきた。 その結果、1960年代に台湾の年間実質輸出伸張率は18.3%に達するほどだった。 その後、台湾は'アジアの小龍'と呼ばれ、新興経済国に浮上した。 米中修交以降、台湾は外交的に孤立したが、政府の投資奨励策と製造業育成政策で経済成長を導いた。

  急速な経済成長の中で、台湾国民は国民党の一党独裁を批判し、民主化運動を始めた。 これを受け、国民党政府が1987年戒厳令を解除し、続いて総統直選制と多党制を施行したことで、上からの民主化を円満に推進した。 しかし、中国の急激な浮上と共に台湾内部では台湾の独立を追求する民進党と一つの中国を固守する国民党の対立が激化した。 こうして台湾では経済政策の失敗とあいまって、両党間で政権交替が頻繁に行われている。

 

東アジア史百科:高雄事件と台湾の民主化運動

  台湾民主化運動の中心点であった雑誌社、美麗島は1979年12月10日、「世界人権の日」を迎え、台湾人権委員会発足のために集会許可申請をした。 しかし、政府がこれを許可しなかったため、行事を強行しようとした主催側と警察の間で物理的な衝突が起きた。 台湾南部の大都市である高雄市では、3万人以上の示威隊が警察の過剰鎮圧に抗議して示威を行った。

  この事件で約150人の人士が逮捕され、軍事法廷で国家反乱罪などで懲役15-20年の重刑を言い渡された。 しかし、この事件は台湾で民主化運動が本格化する契機になった。 その後台湾の民主化が進展し、この事件を引き受けた共同弁護人団の弁護士として活動した陳水扁が2000年選挙で総統として当選し、台湾で初めて与野政権交替が行われた。