古朝鮮の成長と変化
青銅器文化に基づき成立した古朝鮮は遼寧地方を中心に成長し、次第に周辺地域を統合して勢力を拡大していった。一時、中国の燕と対立するほど成長したが、燕の侵略により勢力が萎縮された。
戦国時代以降、秦漢交替期に至るまで、中国で混乱が繰り返されると、多くの遺移民が古朝鮮に移住してきた。漢が建国されてから古朝鮮に入ってきた衛満は準王を追い出し、王位を継いだ(紀元前194)。衛満朝鮮は、鉄製武器で周辺の小国を征服して領域を広げ、韓半島(朝鮮半島)南部にあった辰国と中国の漢との交易を遮断し、中継貿易で利益を得た。
古朝鮮の国力が伸び、北方で勢力を伸ばしていた匈奴と古朝鮮が連合する可能性が生じると、漢の武帝は古朝鮮を侵略した。古朝鮮は1年以上頑強に抵抗したが、支配層が分裂し王倹城が陥落し滅亡した(紀元前108)。漢は古朝鮮の昔の地に郡県を設置して支配したが、土着勢力の抵抗が続いた。古朝鮮の人々の一部は南方に移住し、三韓の発展に貢献した。
紀元前108年頃の朝鮮半島
古朝鮮の政治組織と社会の姿
古朝鮮は王権が強化され、紀元前3世紀頃には王位が否王から準王へと続く王位の父子相続が行われた。王の下には相、卿(けい)、大夫、将軍、博士という官職があったが、中でも相は自分が直接治める領域と住民がいた。
古朝鮮は8条法を作り社会秩序を維持した。そのうち3つの条項だけが伝わっており、これを通じて古朝鮮は私有財産を重視し、刑罰と奴婢が存在する階級社会であったことが分かる。古朝鮮が滅亡して漢の郡県が設置されてから、土着民の抵抗が激しくなり、法の条項は約60条に増えた。
古朝鮮の8条法:(古朝鮮には)民に禁ずる法8条がある。 人を殺した者は直ちに殺す。他人を傷つけた者は穀物で償う。盗みをした者は奴婢にする。これを許されたい者は一人につき50万銭を払わなければならない。- 漢書
松花江流域で成長した扶余
扶余は松花江流域の平野地域を中心に成長した。1世紀初めから王号を使い、王の下には家畜の名前にちなんだ馬加、牛加、猪加、狗加などの様々な加があった。王は中央を治め、加は別途の四出道を治めた。このように扶余は王が独自の領域を支配する様々な加と共に国政を運営する連盟体国家であった。加らは王を選出したり、凶作になると王にその責任を問ったりもした。
扶余の法は非常に厳しく、殺人者は死刑に処し、その家族は奴婢にし、盗みをした者は12倍に賠償させた(1冊12法)。兄が死んだら兄嫁を妻にする兄死娶嫂制と殉葬の風習があった。
鴨緑江一帯で成長した高句麗
高句麗は扶余から移住してきた集団が卒本地域に建てた国である。卒本地域は山間部が多く平野が不足しているため農作業に適していなかったため、自給自足の食糧が困難であった。そこで高句麗は周辺の小さな国を統合して成長し、交通の便の良い鴨緑江辺の国内城に首都を移した。
高句麗は五部*を土台に連盟体国家となった。王の下に相加、古鄒加などの大加があり、彼らは使者、皁衣、先人などの官吏を従え、独自の勢力を形成した。王は五部の大加とともに国家を運営したが、重罪人の処刑などの国家の重大事は、諸加会議を通じて決定した。高句麗の法は厳しく、大きな罪を犯すと死刑に処せられ、その家族は奴婢とした。兄死娶嫂婚の風習と婿屋制*という婚姻風習もあった。
* 五部 : 消奴部、桂婁部、絶奴部、灌奴部、順奴部がある。 初期には消奴部から王を輩出したが、その後、桂婁部の高氏が王族、絶奴部が王妃族として定着した。
* 高句麗の婿屋制 : 婚姻の際に口頭で事前に決め、女の家で本屋の後に小さな別屋を建てるが、その屋を婿屋と呼ぶ。……子供を産んで成人すると、夫は妻を連れて自分の家に帰る。-三国志魏書東夷伝
東海岸に位置する沃沮と東濊
沃沮と東濊は咸鏡道(ハムギョンド)と江原道(カンウォンド)北部の東海岸地域に位置していた。この地域は肥沃な土地で海産物が豊富だった。しかし、高句麗の圧力を受けて大きく成長することはできなかった。沃沮と東濊ともに王がなく、邑落ごとに邑君、三老と呼ばれる郡長が自分の部族を治めた。
沃沮には予婦制*という婚姻風習があり、家族が死んだら一時的に埋葬し、後に骨だけ取り出して家族共同墓である大きな木槨に安置する風習があった。
東濊は氏族社会の伝統が残っており、族外婚を厳格に守り、他の部族の生活圏を侵すと牛や馬に弁償させる責禍という風習があった。
* 沃沮の予婦制 : 女性の年齢10歳になる前に結婚を約束する。 新郎の家では女を迎え成長すれば女房とする。 女が大人になると実家に戻す。 実家ではお金を要求するが、新郎の家でお金を支払った後、再び新郎の家に戻ってくる。-三国志魏書東夷伝
韓半島南部に位置する三韓
韓半島(朝鮮半島)南部では馬韓、辰韓、弁韓の連盟体が現れた。馬韓は54の小国、辰韓と弁韓はそれぞれ12の小国からなる。三韓の中でも馬韓の勢力が最も大きく、馬韓の小国の中でも目支国が最も強かった。目支国の支配者は馬韓王または辰王に推戴され、三韓の全体を主導した。
三韓の小国は勢力の大きさによって臣智、邑借と呼ばれる郡長たちが治め、彼らとは別に天君という祭祀長があった。 天君は祭天行事など宗教儀礼を主管したが、祭祀を行っていた蘇塗(そと)は君長の勢力が及ばず罪人がそこに逃げても捕まえることができなかった。これにより、三韓が政治と祭祀が分離された社会であったことが分かる。
三韓では鉄製の農機具が広く普及し、貯水池が作られ稲作が発達した。弁韓と辰韓地域では鉄がたくさん生産され貨幣のように使われ、中国の郡県と倭などに輸出した。後に馬韓の百済国、辰韓の斯盧国、弁韓の狗邪国がそれぞれ百済、新羅、伽耶連盟へと発展した。
ソッテ : 棒を立て、鳥の形をしたもので、三韓の蘇塗(そと)から始まったものと見える。
注 : 韓国の歴史学界では、馬韓、辰韓は「単一の連盟体国家」と認識していません。 また、馬韓、辰韓、弁韓地域の小国の数も多かったと認識しています。