朝貢·冊封の外交秩序

  武帝以降、漢が東アジアの強大国に成長し、対外関係に朝貢と冊封の形式が定着し始めた。朝貢は周辺国が中原王朝に礼物を捧げ、形式的な尊重を表明する行為である。これに対して冊封は、中原王朝が周辺国の君主にその支配権を宣言的に確認することである。

しかし、朝貢·冊封関係は直接的な支配や実際的な干渉と関係のない形式的な外交の枠組みに過ぎなかった。 漢は冊封という名分に執着した反面、周辺国は朝貢を通じて漢と交流し、文化的·経済的実利を取った。

  歴代の中原王朝は軍事的征服が可能な場合、積極的に遠征を行った。一方、朝貢·冊封関係は相手国の存在を現実的に認めざるを得ない状況を反映したものだった。また、各国の内外の必要により、朝貢や冊封が中断されるケースも多かった。匈奴や西域の国々は、冊封なしに交易が必要な時にのみ使節を派遣することもあったが、漢はこれを朝貢だと便宜的に解釈した。このように朝貢·冊封関係は互いの必要によって行われた儀礼的な関係に過ぎなかった。

  朝貢·冊封関係は中原王朝と周辺国との力学関係により多くの屈折を経験した。中原の統一王朝が崩壊したり、草原地帯に国家が建てられたりする時は、北方民族が主導する新しい国際秩序が形成されたりもした。

步輦図(中国 北京 故宮博物館) 7世紀中頃、土蕃の使者が唐太宗に謁見し、朝貢を捧げる場面が描写されている。

南北朝時代の多元的外交

  3世紀初め、後漢が滅亡した後、東アジアには新しい国際秩序が形成された。中原の統一王朝が崩壊すると、強大国中心の外交関係に代わり、相互友好を確認するための現実的かつ多元的な外交が国際秩序の主な形式となった。

  高句麗は5胡16国時代、華北の諸国への朝貢·冊封関係を結んだ。特に、小獣林王の時は前奏*から仏教を受け入れた。 長寿王の時は北朝の北魏と南朝の宋にすべて朝貢した。

 百済は主に南朝と朝貢·冊封関係を維持し、仏教と儒学、建築技術などを受け入れた。新羅は6世紀に百済の仲介で南朝と朝貢·冊封関係を結んだ。大和政権の倭は5世紀に南朝と冊封関係を結び、百済や新羅とも使節を交わした。

  このような外交関係は6世紀中頃、草原地帯に突厥が成長するにつれて変化した。北朝は突厥と親善を結ぶため、数回にわたって使節を派遣した。北周と北斉に分裂した後、両国は突厥の王女を皇后として迎えようと競争した。北朝の後を継いだ隋と唐も初期には突厥に臣下を名乗り、朝貢使節を派遣した。

 

*前奏 : 5胡16国の一つでチベット系の氐族が建てた国である。苻堅時代に全盛期を迎え、一時、華北地方を統一した。

 

探求活動 : 南北朝時代の外交

 

高句麗の外交

481年、高句麗が使臣を送って南斉に朝貢した。 しかし、(高句麗の)勢力が強く統制を受けることはなかった。

北魏は使臣の宿を作る時、南斉を一番大きく、続いて高句麗をその次にした。489年、南斉の使臣が北魏に行った時、高句麗の使臣と並んで座ることになった。南斉の使臣が「高句麗は我々の臣下として従っているのに、どうして我々と並ぶことができるのか?」と抗議した。 - 南斉書

 

突厥に向けた北周と北斉の接近

北周は突厥と和親した後、毎年莫大な物資を送った。北斉も突厥が侵略してくることを恐れ、やはり突厥に多くの財物を与えた。これにより突厥はさらに驕慢になり、「南にいる二人の子供が孝行心を捧げさえすれば、どうして物資がないことを心配する必要があるだろうか?」と述べた。-周書

 

隋ㆍ唐帝国と韓半島、日本

  6世紀末、隋が分裂した南北朝を統一した後、東アジアの外交秩序には大きな変化が現れた。初期、隋は突闕に守勢の姿勢を見せたが、やがて突厥を服属させた。そして周辺国に対して積極的な政策を展開し、自国中心の国際秩序の構築に努めた。高句麗がこれに抵抗すると隋は何度も高句麗を侵攻したが失敗し、結局滅亡した。

  唐も自国中心の朝貢·冊封関係を周辺国に求め、周辺国が抵抗する際には積極的に軍事活動を展開した。唐が突厥を大々的に攻撃し、一時服属させたことや、高句麗を侵攻したことなどがその事例である。

  韓半島の新羅と渤海などは政権を安定させ、唐の先進文物を導入するため、唐中心の朝貢·冊封関係を受け入れた。唐の支援を通じて国内統合を維持し、対外的な軍事脅威に対処する効果も収めることができた。しかし、韓半島の各国は隋&唐の侵略や干渉には強力に対応した。

 

高句麗の嬰陽王は隋の使臣を空き客舎に座らせ厳しい警戒態勢を敷き目と耳を塞ぎ永久に聞くこともできないようにした。いかなる陰険な計画があっても我々の隋が知ることを望まないし、また我々の隋の官僚を統制して彼らが見ることを恐れるのか? -隋書

 

  上記の史料からも分かるように、この時期における朝貢·冊封関係は自国の利益のためにはいつでも壊れうる不安定な状態を保っていた。

  日本は隋が建国された直後、遣隋使を派遣し、唐が建てられた後は活発に遣唐使を派遣した。新羅と渤海にも使臣を派遣した。しかし、8世紀末に平安時代に入ってからは他国との外交交流が途絶えていった。

 

唐と北方民族

  北方民族は唐中心の外交秩序を受け入れなかった。突厥、ウイグル、土蕃などはやむを得ない場合を除き、唐の冊封を拒否した。突厥は6世紀中葉に国家を建設した後、国力を振るい一時唐が臣下を自任した。 その後、突厥は唐に滅亡したが、7世紀末に唐の干渉を退け、国を復興させた。

  ウイグルと土蕃は唐に服属せず、経済交流のための朝貢関係だけを望んだ。 彼らは唐が自らの要求に応じなければ攻撃したりもした。 8世紀以降国力が衰えた唐は彼らの軍事的攻撃を防ぐため、花蕃公主を派遣した。

キルテキン碑(モンゴル ホーショー チャイダム)
 8世紀初めに建てられた碑で、唐に対する警戒心と自主意識が突厥文字でよく表現されている。 突厥文字(古代テュルク語)は東アジアの遊牧民族の間で初めて使われた文字である。 また、漢字を除いて東アジアで最も古い文字でもある。 

 

自国中心の天下観台頭

  韓半島と日本列島の国家は周辺と交流し、自国中心の秩序を適用しようとした。 高句麗は4世紀末以降、天孫国家と考える独自の天下観を持ち、新羅と百済を服属国のように考えた。 新羅は形式上、唐に朝貢しながらも、唐を韓半島の外に追い出した。 また、渤海についても自国を上位に置く外交秩序を主張した。

  渤海は建国当初、唐と冊封関係を結んだが、一時、唐を攻撃するなど唐中心の国際秩序への編入を拒否した。 その後、唐と親善関係を結んだが、独自の年号を使うなど、主体的な態度を堅持した。

  日本は中原王朝中心の朝貢秩序に消極的だった。 独自の年号を使い、大国を自任して新羅と渤海より相対的に優位を主張し、葛藤をもたらした。 このような外交摩擦により8世紀末、新羅と日本の外交は完全に断絶した。

 

東アジア史百科 : 東アジア各国の天下観

  太陽の惠澤と恩恵は天にあまねく及び威厳と武功は世にとどろかせた。……百済と新羅はかつて我々の属民だったので朝貢をしてきた。 広開土大王陵碑文

 

  朕は帝王として天道に背かないように努力する。 -摩雲嶺(マウンリョン)真興王巡狩碑文

 

  倭使臣が持ってきた国書によると、「日が昇る所の天子が日が沈む所の天子に文を送る」。 お変わりございませんか。」と答えた。 隋煬帝が不快に思い「これからは蛮族の文の中で無礼なことは報告するな」と言った。-隋書

 

  東アジア諸国は中原王朝と朝貢·冊封関係を結びながらも、内部的には自国中心の天下観を有していた。 このような天下観に基づき、時には周辺国に朝貢を要求することもあった。