魔人の記
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ring.80 つなぎとめる

ring.80 つなぎとめる


正文はうつむいていた。
過去の記憶を見終え、意識が現在に戻ってきてからずっとそうしていた。

(……思い出……)

そのまぶたは限界まで開かれている。

(黒く塗りつぶされた空の、あの一坂小学校は……彼女の思い出……だった)

まぶたの内側にある目はうつろで、視線の先にあるものを映してはいるが、それが何なのか認識していない。
視覚は機能しているが、その情報を脳が受け止められないという状態だった。

正文の中では今、記憶の混乱が起こっている。
メギルェとの思い出と、ミカガミ内にある夜の一坂小学校の様子が入り乱れている。

彼は、入り乱れた記憶をひとつひとつ吟味しては整理し、思い出と現状を照らし合わせるという作業を行っていた。
この作業を終えなければ、顔を上げることすらままならない。

それほどまでに、過去の記憶は正文にとって衝撃的だったのである。

(彼女は…夜の暗さが怖かった……だからほんとは、あの夜の暗さだって憶えていたくはなかった。だけど)

正文の体が小刻みに震える。

(だけど…! 俺との思い出だから、その思い出をずっと大切に持っていたから…あの夜の暗さをちゃんと忘れずにいたんだ)

ただそれでも、メギルェは夜の暗さに対する恐怖を消し切れなかった。

ミカガミ内の空が黒一色で塗りつぶされていたのは、それが原因だった。
彼女は、黒い夜空にわざわざ濃淡などつけられなかったのだ。

「……私は、お前があの時の子どもだと最初からわかって……」

少し離れた場所で、プロフェッサーが朗々と何か言っている。
だが正文の耳には入らない。

彼は作業に集中していた。
細心の注意を払う必要があった。

作業の先にある答えはもう見えている。
最初からわかっていたはずだといわんばかりに、はっきりと示されている。

だがそれはとても儚い。
過去の記憶が持つむごたらしさにさらされれば、あえなく散り失せてしまう。

そんなもろいガラス細工のようなものを、正文は自分の心につなぎ止めようとしていた。
それはあたかも、彼が異能を用いて手から鎖を放ち、自身と対象を結びつけるのに似ていた。

(小花たち七不思議が、あんなに人間くさいのは…ガキんちょの俺のネーミングセンスに影響されたのかもしれない。あとは…あんな友だちがいればいいなっていう、メギルェの願望もあったのかも…)

記憶を見た限り、メギルェが幼い正文以外の子どもと遊んでいた様子はない。

他にも友だちがほしい。
彼女がそう考えても、不思議はないように思えた。

そこへ、プロフェッサーのこんな言葉が飛び込んでくる。

「おそらくメギルェは、お前に助けてほしいのだろうな」

「…!」

正文の肩がピクリと震えた。
直後、彼は心で解答する。

(違う)

否定だった。
即答できた。

そしてこの即答が、つい今しがた出たばかりの答えをも書き換える。

(違う…! メギルェの願望とかじゃない……)

ある記憶が彼の中に呼び出された。

”ごめんねえ……まぁくん、うえええん! ごめんなさぁい…!”

それはメギルェが、泣きながら正文に謝っている記憶である。

木から下りられなくなった子猫を助けてほしいと彼女が頼み、頼みをしぶしぶきいた幼い正文が木から落ちた。
その時の記憶だった。

(俺はこの記憶を何度も見た。最初はほとんどぼやけていたのに、何度か見るうちに鮮明になっていった…メギルェは、この記憶を通じて『今の俺にも謝っていた』んじゃないのか)

そして正文は、書き換わった答えを明確に認識する。

(小花たち七不思議があんなに人間くさいのは、俺を助けるためだった! 小花たちに俺を助けさせるためだったんだ!)

全身の皮膚をはがされ、『大地の鎖』なるものを生み出させられてなお、メギルェは正文のために力を使ったのだ。

(メギルェ……)

正文の心が震える。

(きっと…いや間違いなく、キミの方がつらい思いをしてる。なのにキミは…)

今ならわかる。
七不思議たちが最初にそっけない態度を見せたのは、正文がメギルェのことを思い出さないようにするためだった。

素直に歓迎してしまえば、全てを忘れた彼は不審に思うだろう。
その不審が、メギルェとの思い出を蘇らせることにつながるかもしれない。

メギルェはそれを恐れた。
そんな可能性は、万にひとつもあってはならなかった。

思い出せば、正文が自責の念に駆られて苦しむとわかっていたからである。
だからこそメギは銀三郎に命じて、彼をミカガミから放り出した。

(なんとかして俺を助けようと……!)

正文が重傷を負った時は、治療してくれた。

その後で小花はもうミカガミからは出られないと言ったが、これも彼を守るためだった。
キルメーカーという殺しの舞台から、正文を下ろそうとしたのだ。

それでいてベントーベンが、自分たちの名前について小花にゆさぶりをかければミカガミから出られると正文に助言したのは、彼を大事に思うあまり頼みを突っぱねられなかったためである。

そして小花たちが、自分たちの名前について正文が思い出すことを恐れていた理由もまた、メギルェとの思い出が蘇るのを恐れたがゆえだった。

全ては、正文が心身ともに無事でいられるようにという、メギルェの想いから生まれた行動だったのだ。

(俺はキミのことを完全に忘れてたっていうのに…キミはずっと、俺を助けようとしてくれてたんだな……!)

正文の母親ですら、子どもの彼を利用していた。
彼を成功者へ導くことで、失敗した自分の人生を取り戻そうとした。

だがメギルェはそうではない。
その行いは贖罪から出たものかもしれないが、少なくとも正文には見返りを求めない行動に思えた。

(メギルェ…!)

正文は、メギルェへの思いを強くする。
感謝の気持ちとともに、どうにかして助けてやれないかと真摯に考えようとする。

そこへ、またもやプロフェッサーの言葉が割り込んできた。

「そもそも、あの日お前たちが逃げ出せたのも、私がお膳立てしてやったからなのだ」

(!)

「それすらわからずお前に助けを求めるとは、あまりに愚か……」

(なんだと?)

正文の中で、瞬時に怒りが燃え上がる。
左肩甲骨の下が小さく破裂した。

(愚か…だと、言ったのか?)

破裂は背中の右側でも発生する。
同時に出血が起こり、周囲に血の臭いが漂いだした。

「なんだ?」

プロフェッサーは途中で話を打ち切り、血臭がどこから来くるのか探し始める。
つまり、まだ気づいていない。

(メギルェを…愚か、だと……そう言ったのか?)

破裂と血臭の発生源が正文だと、まだ気づいていなかった。
彼がうつむいたまま、白目部分が赤黒く染まった両目で自分を見ているなど、プロフェッサーは知りもしない。

(彼女は俺を助けてくれたし、今も助けようとしてくれてるんだぞ…それなのに)

正文の体内をめぐる血液が、急速に熱くなる。

(それなのに、お前は彼女を愚かだと言うのか)

その温度は、人間の平熱といえる36度を優に超えた。
破裂とともに体外へ出た血液が、炎をまとう。

(許さん…)

正文の大きく太い体が、床から浮き上がる。
彼は両腕で自身のひざを抱え込むようにした。

破裂と出血はさらに続き、炎をまとった血液が床に滴り落ちる。
すると、落ちた箇所が溶けて煙があがった。

「むっ!」

血臭に加え、床材が溶ける異臭を感じたプロフェッサーが、ついに正文を見る。
異常の発生源が彼だっと知るや、その顔には落胆がありありと表れた。

「血の臭いがしたから何事かと思ったが…お前だったとはな、阿久津 正文」

「…謝れ…」

正文は、空中でひざを抱え込んだまま低い声で言う。
これを聞いたプロフェッサーはせせら笑った。

「謝れ、と言ったのか? 誰が誰に謝るというのだ」

「お前が、メギルェに…謝るんだよ…」

「その必要はない。なぜなら、彼女がそれを求めてないからな」

「謝れ…!」

正文は、赤黒くギラついた目でプロフェッサーをにらみつける。
背中で2回破裂が起こり、新たに滴った血液が床の表面をさらに溶かした。

プロフェッサーは、炎血の落下と床表面の融解をその目で見てから、やれやれと呆れてみせる。

「なかなかの『熱血』ぶりだが…正直なところ、期待外れだよ。阿久津 正文」

「…謝れ…!」

「過去の記憶が蘇って逆上して、その程度なのか? もっと私を楽しませ」

「謝れ!」

正文の強い声が、プロフェッサーの話を遮る。
プロフェッサーの顔から、呆れの感情が消えた。

「謝れ謝れというが…」

彼は、目が合った者を凍りつかせるような、冷たい眼差しで正文に尋ねる。

「謝らなかったら、どうするつもりかね?」

以前の正文であれば、この時点で震え上がっていた。
何もできずにうつむいていただろう。

だが、今の彼は違う。

「うおおおおおおおおおおおおッ!」

空気のみならず、地面すらも震わせるほどの雄叫びをあげる。
それと同時に両手両足を大きく開いた。

破裂した傷口から、炎をまとった血液が飛び散る。
まるで火山が噴火して溶岩をまき散らすかのようだった。

さらに、破裂した傷口ひとつにつき1匹の蛇が出現する。
それが続けざまに8回発生し、蛇は全部で8匹になった。

「シャァアッ!」

蛇たちはプロフェッサーに向かって牙をむき、あるいは舌を出し入れしてみせる。

「ぬぅうううう…」

宙に浮いた状態で8匹もの蛇を背負う正文の姿は、まさに復讐の化身といえた。
その状態で彼は、プロフェッサーから問われた『メギルェに謝らなかったらどうするか』の解答を口にする。

「殺すッ!」

言い終わるが早いか、正文はプロフェッサーに突撃した。
8匹の蛇たちを先行させつつ、自身も右拳を大きく引いて殴りつけようとする。

この行為に対し、プロフェッサーは嘲笑をもって出迎えた。

「フハハッ」

音もなくそれは起こる。
猛スピードでプロフェッサーに迫っていたはずの正文が、空中でバラバラになった。

彼は勢いを失って床に落下する。
8匹の蛇たちも輪切りにされ、落ちたその場から動けなくなる。

不思議なのは、バラバラにされたというのに正文も蛇たちもまだ生きている、ということだった。
だがこれには理由がある。

「お前の…いやお前たち、と言うべきか? とにかくその体を、『変化』させた」

プロフェッサーはそう言うと、正文に近づく。
正確には、正文の頭部に近づく。

そしてそれを右足でそっと踏んだ。

「お前がどれほど逆上しようが、強くなろうが…『それ自体を変化』させてしまえばこれこの通り。生きたままバラバラにしてやれば、悔しさにまみれるしかない」

「…あやま…れ……」

「まだ言うか。四肢を切ってやった時とは大違いだな」

「メギルェ…に…あやまれ……!」

「その必要はないと言ったろう」

プロフェッサーは、正文の頭を踏んでいる右足に力を乗せる。
それは『変化』により、通常では考えられないほど強くなる。

「あやま…ブゴッ!」

正文の頭は、あっけなく踏みつぶされた。
熱を失った血液とともに、脳組織の一部と眼球があたりに散らばる。

「ハハハハハハッ!」

プロフェッサーが高らかに笑った。

「どうした、阿久津 正文! メギルェに謝らなければ、私を殺すのではなかったのか? お前が私に殺されてどうする!」

「……」

「さすがに何も言えなくなったか」

プロフェッサーは、正文のつぶれた頭をぐりぐりと踏みつける。
この蛮行には『変化』の力が伴っていなかったため、踏みつけた部分から少量の血が新たに流れただけだった。

やがて足の動きを止めると、彼は話を変える。

「ひとつ教えてやるぞ、阿久津 正文。私がお前に過去の記憶を見せたのは、逆上という衝動に期待したからだ」

損得で動く世界は単純明快だが、それ故に飽きが来るのも早い。
そのため、変化が必要になる。

「変化のもとになるのは衝動。衝動は、復讐心や正義感といったものをくすぐってやると生まれやすい」

つまりだ、とプロフェッサーは言葉をつぐ。

「お前のその怒りさえも、私がお膳立てしてやったものにすぎない! 私の助けがなければ、お前は逆上すらできないのだ!」

それから彼はひとしきり笑った。
笑い終えると、途端に表情を冷たいものへと変える。

「もしかしたらお前は、私を驚かせるほどの力を見せるかもしれない…そう期待したのだがな、見事に外れたよ」

プロフェッサーが、つぶれた正文の頭から足を離す。

「お前に、認識改変を施してやろう。それからメギルェと同化させてやる。ふたりとも『大地の鎖』として、私に協力するのだ」

バラバラになった正文の体に、背を向ける。

「なあに心配はいらない。お前たちふたりは楽しく遊ぶだけだ…あの頃のようにな。もちろんそれは思い込みで、実際は私のために力を使っているわけだが…その間に、私は目的を達せ」

「アヤマレ」

「い……?」

突如聞こえた声に、プロフェッサーはぎょっとして振り返る。
と、床に散らばった眼球のひとつと目が合った。

その直後、プロフェッサーはその場にひざをつく。

「!?」

なぜそうしてしまったのか、プロフェッサー自身にもわからない。
わかるのは、視界がみるみるうちに白く染まっていくことだけだった。


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ring.79 オゾマシキ歪ミ

ring.79 オゾマシキ歪ミ


崩れる。
崩れてゆく。

「ぐぼぁッ」

他愛ない言葉を交わしたその口が。
優しい微笑みをくれたその顔が。

「ぐぎ…えげぁおッ」

歪む。
歪んでゆく。

「あ、あぐっ、うぶぇ」

もう少しでつぼみから花へと変わりつつあった、あどけない少女そのものが。

「ぐべぁぼグリョバドゥロアァアアアアアアッ!?」

メギルェが絶叫する。
人の悲鳴からはかけ離れた『音』を、小さな口から放つ。

彼女の体は激しくけいれんし、拘束された手首の先にある10本の指が開いたり閉じたりを繰り返す。
涙なのか汗なのか、それとも他の体液なのか、木製の椅子から何か水のようなものが大量に滴り落ちる。

「えっ…?」

幼い正文は、突然のことに愕然とする。
理解が追いつかない。

メギルェの身に一体何が起こっているのか、彼には想像すらできなかった。

「め、メギ…ルェ……?」

「ギィヨバルブァアゴォオオオオッ!」

幼い正文が名前を呼んでも、怪物が吠えるような声しか返ってこない。
彼にキスをねだった可憐さなど、どこを探しても見当たらない。

「…? ……?」

幼い正文は言葉を失う。
そのすぐそばで、過去のプロフェッサーが気分の高揚を隠すこともせず、こんな言葉を言い放った。

「いいぞ、思った通りの反応だ!」

そしていつの間にか右手に持っていた、リモコンのスイッチを押す。
すると、これまで沈黙を守っていた機械が動き出し、細長い筒のようなものをメギルェに向けた。

筒は全部で12本あり、時計と同じ配置で等間隔に並んでいる。
その全てから、一斉に赤紫色の光線が射出された。

「ゲビャビオブラベハァアェエエエエエッ!?」

メギルェは全身に光線を浴び、赤紫色の光に包まれたようになる。
幼い正文はこれを見て我に返った。

「や、やめてよ!」

彼は過去のプロフェッサーに訴える。

「メギルェがくるしんでる! やめてあげて!」

「バカなことを言うんじゃない。何十年もかかってやっとここまでこぎつけたのだ。そぉら見てみるがいい、後頭部がふくらんできたぞ!」

「!?」

幼い正文は、過去のプロフェッサーが指差した先を見る。
その言葉通り、メギルェの後頭部が不自然に膨張していた。

彼らは正面から見ているというのに、ふくらんでいるのが後頭部だとわかる。
それほどまでに、膨張の度合いは常軌を逸していた。

そしてそれは発生する。

「ウベァ!」

常軌を逸した膨張の先にあるのは、破裂である。
メギルェの後頭部もまた、その法則からは逃れられない。

「よし、ストップ!」

過去のプロフェッサーは再びスイッチを押し、光線の射出を終えた。
それからしばらくすると、メギルェの体にさらなる変化が起こる。

後頭部が破裂すると同時に、その部分の頭皮も弾け飛んだようだ。
顔全体の皮膚がズルリと動いて、前へとはがれ落ちる。

メギルェの顔が歪んでいったのは、表皮と筋肉のつながりが断たれてしまったためだった。
すでにその断絶は全身に及んでいたらしく、彼女の皮膚はズルズルと椅子の前へ流れるように落ちていく。

落ちていく中で、先ほど破裂した後頭部の頭皮部分が皮膚自身の重みに耐えきれず裂けた。
光線の射出が終わると同時に拘束具が外れたこともあり、背もたれと座面に密着している部分以外がむけていく。

やがてメギルェの皮膚が、椅子の前に落ち溜まる。
椅子には、皮膚を失った赤黒い体が残った。

「ひっ…? うぇ……!?」

この頃になると、幼い正文は『何が起こっているのか』だけでなく、『自分が何を見ているのか』すらわからなくなった。

当然である。
心を通わせた相手が無惨な姿になって、正気でいられるはずがない。

正気でいられるとすれば、その人物はおよそ普通とはいえない。
普通の心や感覚といったものを持ち合わせていない。

「いいぞいいぞいいぞぉおおおッ!」

過去のプロフェッサーはまさに、普通ではなかった。
彼は心から嬉しそうに、赤黒いメギルェを眺めていた。

「今まさに! メギルェは人の姿を脱ぎ捨てた! 排出された体液の中に血液は存在しない! 全身の皮膚を失いながら一滴の血すら流さなかった! ついにたどり着いたぞ、私は……」

ここで、何もかもが真っ暗になった。
過去のプロフェッサーの声も途切れた。

幼い正文が気絶したのである。
彼自身は何もわからないまま目の前で起こっていることを見ていたのだが、肉体の方がついていけずにスイッチを切った格好だった。

彼が次に目覚めた時も、場所は地下空間のままだった。
しかし椅子には誰も座っておらず、代わりに何か黒い輪のようなものが浮いていた。

もしメギルェが椅子に座っていたなら、輪はちょうど彼女の頭上にあったかもしれない。
幼い正文がそんなことをぼんやり考えていると、誰かの声が聞こえた。

「あれこそが、『大地の鎖』だ」

過去のプロフェッサーである。
幼い正文は震え上がり、体を固くしてうつむいた。

そんな彼を見て、過去のプロフェッサーが笑う。

「怖がる必要はない。お前は大義をなしたのだ」

「……」

「これまでも、この星に罰を与えようと考える者はいただろう。だが、それを実行し得る手段を持つことはできなかった。核兵器で地表を破壊したところで、この星は痛くもかゆくもない。ただ人類の文明が終わるだけだ」

「………」

「しかし、私は本当の意味でこの星を罰する手段を得たのだよ。そしてお前はその一助となった。これ以上の大義がどこにある? どこにもありはしない」

過去のプロフェッサーはそう言うと、幼い正文に何かを投げてよこした。
それは空中で広がって、うつむいて床に座る幼い正文の頭に覆いかぶさる。

「…?」

幼い正文は顔を上げ、覆いかぶさってきたものを手に取る。
自身の目と手で調べ始めた。

表側は肌色で裏側は赤黒い。
材質は布ではないようだ。

ゴムシートのように思えるが、それにしては手ざわりがよすぎる。
いくつか穴があいており、派手に破れた箇所もあった。

「……??」

彼は不思議そうに首をかしげる。
そこへ、過去のプロフェッサーがこう告げた。

「それはお前へのごほうびだ」

「ごほうび…?」

「大義をなしたのだからな、それ相応のほうびが必要だろう。好きに使うといい」

「これ、なに……?」

「なんだ、わからないのか?」

過去のプロフェッサーがニヤリと笑う。
そして幼い正文にこう言った。

「そんなことを言っては悲しむぞ。お前にとってはファーストキスの相手だろう」

「え…?」

幼い正文はあらためてゴムシートのようなものを見る。
その時ちょうど、ふたつの穴が目に入った。

「…あ…」

幼い正文の脳裏に、あるものがよぎる。
それは可憐だったはずの少女が、醜く歪んだ姿。

「あっ、ああっ……!」

彼は気づいた。
過去のプロフェッサーが投げてよこしたものとは、

”まぁくん”

「あああああああああああああッ!」

メギルェの体から脱げ落ちた、上半身の皮膚だった。


この出来事は、幼い正文の精神を十二分に破壊した。
彼はメギルェに関する記憶を全て失い、快活だった性格も陰気なものへと変貌した。

特に陰気な性格は、引っ越し先での生活に暗い影を落とすことになる。
他の子どもたちからいいおもちゃにされ、それが高じて彼の学生生活は悲惨なものとなった。

さらには人生そのものも失敗し、未来にも絶望した。
ブラック企業から逃げ出して以降は、貯金を切り崩しながら人生の終わりを待つような生活をしていた。

「…不思議なものだな、阿久津 正文」

プロフェッサーが正文に語りかける。
過去の記憶は終わり、ふたりの意識は現在へ戻ってきた。

正文は球体状の部屋の床に座り、うつむいている。
その前方3メートルほどの位置にプロフェッサーが立っている。

少し離れた位置から眺めれば、ふたりが大階段とその先にある玉座を挟んでいるように見えるだろう。
その場合、左から正文、大階段とその先にある玉座、プロフェッサーという並びになる。

「私のために大義をなしたお前が、親の都合で引っ越し…」

プロフェッサーが話を続ける。

「引っ越した先で人生に失敗した。そしてまた一坂へ戻ってきた。キルメーカーで殺される側、チェインドとしてな」

「……」

正文は一言も言葉を発しない。
うつろな目を、ただ床に向けている。

時折体が小刻みに震えるものの、何らかの行動を起こすわけではなかった。

「もちろん私は、お前があの時の子どもだと最初からわかっていた」

プロフェッサーは左の口角をほんの少しだけ上げて笑う。

「不思議な夢を見たことも知っているぞ。あれはメギルェとお前が遊んだ記憶…彼女は『大地の鎖』と化してなお、お前がいる場所まで力を伸ばしてお前に夢を見せたのだ」

「………」

「彼女の真意は、残念ながら私の『変化』をもってしてもわからん。能力を使ってはたらきかけようとすると、『大地の鎖』を構成する輪にヒビが入るのでな…手が出せんのだ。しかし推測はできる」

プロフェッサーの顔が思わせぶりな笑みで歪む。

「おそらくメギルェは、お前に助けてほしいのだろうな。あの日、まだ人の姿をしていた彼女をお前が連れ出したように」

「…!」

正文の肩がピクリと震える。
それを見て、プロフェッサーは歪んだ笑みを顔中に広げた。

「だが悲しいかな、メギルェは知らん。今や自分があまりに巨大な存在になったことも、私が彼女を手放す気などないことも。そして救いの王子さまたるお前が、私の前ではあまりに脆弱であることもな」

プロフェッサーはそう言った後で、大げさな素振りでやれやれと呆れてみせた。

「そもそも、あの日お前たちが逃げ出せたのも、私がお膳立てしてやったからなのだ。それすらわからずお前に助けを求めるとは、あまりに愚か……」

と、近くで破裂音がした。
それは突然の出来事だった。

「…?」

プロフェッサーは言葉を止め、臭いをかぐ。

「血の臭い……だと?」

彼がそう認識した直後、さらに破裂音がした。
血の臭いが濃くなる。

「なんだ?」

どこから血臭が漂ってくるのか。
プロフェッサーはその発生源を探し始める。

その一方で。

「……」

正文の両目がぎょろりと動き、プロフェッサーの方を向く。
白目の部分はいつの間にか赤黒く染まり、まがまがしくギラついていた。


→ring.80へ続く

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ring.78 ファースト・キス

ring.78 ファースト・キス


自分は男の子でもあり、女の子でもある。
少女と化した少年はそう言った。

幼い正文は意味がわからず、あやふやな返答しかできない。

「…え? ん……?」

「ごめんね。いきなりいわれてもこまるよね」

少年が苦笑した。
幼い正文は、その笑顔にどこか寂しげなものを感じる。

だから彼は否定した。

「こ、こまってない!」

「えっ?」

「おまえがおとこでもおんなでもかんけいない。おまえは、おまえだ」

「!」

「おれは、おまえにあいたいからあいにきた。おまえといっしょにいたいからあいにきた。そんだけだ」

「まぁくん…!」

「そ、それに」

幼い正文は、少年から顔をそらす。

「よくわかんないけど、い…いまのおまえ、かわいいから……べつに、いいぞ」

「いい、って…ちゅーしても、いいの?」

「お、おう」

「ボクのこと、かわいいっておもってくれるの?」

「い、い…いま、いったろ…なんどもいわせんな」

「うれしい……!」

そう言った少年の声は震えていた。
幼い正文はそれを不思議に思い、再び相手の顔を見る。

「…!」

少女と化した少年は、涙を流していた。
涙を流しながら、微笑んでいた。

その笑顔は、先ほどの苦笑とは全く違う。
寂しさなどまるで感じられず、喜びだけがあった。

小窪公園の巨木が作り出す陰は、夜闇よりさらに暗い。
その中で、少女と化した少年の涙が、星のようにきらめいている。

幼い正文の目には、少女と化した少年がとても美しい存在として映った。
まるで妖精か女神がそこにいるような気がして、胸が高鳴る。

「……」

少女と化した少年が、まぶたを閉じた。
もう、言葉を必要とする段階は終わった。

幼い正文も、なんとなくその雰囲気を感じ取る。
相手にゆっくりと顔を近づけていく。

そしてふたりはキスをした。
互いの唇を重ね合った。

どのくらいそうしていたのか、正確な時間はわからない。
とても長かった気がするし、短かった気もする。

わかるのは、風が吹いて葉のざわめきが何度か聞こえたことと、緊張からか体がやけにこわばっていたこと、そして──

「これで準備は整った」

──何者かの声が聞こえたことだけだった。


次に気がついた時、幼い正文は洋館の地下空間にいた。

「まぁくん!」

少女と化した少年が必死に呼びかけてくる。
幼い正文はその声に引かれ、顔を上げた。

「!」

木製の椅子に、少女と化した少年が座っている。
ただ座っているわけではなく、首と両手首、両足首には鉄を思わせる黒い金属の輪があった。

黒い金属の輪とは拘束具である。
少女と化した少年は、椅子に座った状態で動けなくされていた。

「おい…!」

「礼を言わせてくれるかな、少年」

幼い正文が言いかけたところに、誰かが言葉をかぶせてきた。
その声を聞いて彼はすぐに理解した。

自分の後ろに何者かがいる。
それは、ふたりのキスを強制的に終わらせた人物で間違いなかった。

その人物は、幼い正文の右肩にあごをのせるようにして彼にささやく。

「ありがとう。本当にありがとう」

「え…!?」

「お前のおかげで、メギルェの性が『女性で固定された』。もう二度と男に変わることはない」

「め、めぎ…るぇ……?」

「『彼女』の名前だよ。教えてもらわなかったのか?」

幼い正文の後ろにいる人物が、右手をすっと伸ばす。
節が多くでこぼこした男性らしい人差し指で、少女と化した少年を指し示した。

彼はやがて右手を下ろすと、こう言葉を続ける。

「メギルェは両性具有でね。男でもあり女でもある」

「…! おとこでもあり、おんなでも…ある…」

「それは教えてもらったのか。ククッ、順序がめちゃくちゃだな」

「あ、あいつをおこらないでくれ!」

幼い正文はあわてた口調で、自身の後ろにいる人物に懇願する。
この人物が、少女と化した少年──メギルェ──の保護者だと直感的に理解したのだろう。

「おれがあいつをつれだしたんだ! あいつはわるくない! だからあいつをおこらないでくれ!」

幼い正文は必死に訴える。
その姿を見て、メギルェはつらそうな表情で「まぁくん!」と声をあげた。

一方、彼女の保護者らしき人物は不思議そうに訊き返す。

「私がメギルェを怒る? なぜそう思うのかね」

「だ、だって…あいつ、うごけない…」

「ああ、メギルェを拘束しているのは、私が怒っているからだと思い込んでいるのか」

「ち…ちがうの?」

「安心するがいい、あれはメギルェを守るためにしていることだ。彼女が立派に使命を果たすため、必要なことなのだよ」

「しめい…?」

「それを教える前に、自己紹介をしておこう」

”…!?”

違和感が、幼い正文ではなく現在の正文を襲った。
彼は自身の背後に、何者かの存在を感じる。

幼い正文に乗り移った思念体ともいうべき状態であるにもかかわらず、『背後』というのは奇妙な表現である。
しかし現在の正文にとっては、それ以外の言葉が見つからない。

幼い正文の背後にいる人物と、現在の正文の背後に出現した人物。
ふたりは同時に、同じ言葉を口にした。

”「私のことは、プロフェッサーと呼ぶがいい”」

”……!”

現在の正文の中で、違和感が恐怖に変わった。
彼はただちに、幼い自分へ呼びかける。

”逃げろッ! 逃げてくれ、頼む!”

”無駄だよ、阿久津 正文”

現在のプロフェッサーがせせら笑った。

”お前が今見ているのは過去の記憶。つまり、『すでに起こってしまったこと』なのだ”

”…逃げろ…”

”どれほど強く願おうと、過去が変わることはない。せっかく思い出させてやろうというのだ、最後までじっくりと見ていけ。じっくりとな”

”……逃げろぉ……”

現在の正文は、ただ弱々しく思いを吐き出すことしかできない。
現在のプロフェッサーが言った通り、彼が過去に干渉するのは不可能だった。

そして過去のプロフェッサーは語る。

「メギルェの使命、それは…『大地の鎖』を生み出すこと」

その声は喜びに弾んでいる。

「大地という性質あるいは属性、そして生み出すという行為…これらに適性を持つ性は、男性ではなく女性だ。そのため、メギルェの性を女性で固定する必要があった」

「…?」

「私の言っている意味がわからんか。それも仕方ない。だがそろそろ時間が迫っているのでな、続けさせてもらうぞ」

そう断ると、過去のプロフェッサーはメギルェの性質について話し始めた。

「メギルェが両性具有なのはもう聞いただろう。しかしそれだけではない。彼女は感情によって男女の比率が変化する。お前と出会った当初のメギルェは男の比率が高かったが、お前と過ごしていくうちに女の比率が上がっていった」

「……!」

「なんとなくだが理解したようだな。いい傾向だ。さて、私はメギルェが日に日に女へ変わっていくことを非常に喜ばしく感じていた。私にはできなかったことだからな。だからこそ私はお前たちの邪魔をせず、ただ見守っていた」

過去のプロフェッサーは、幼い正文とメギルェの仲を見守るのと並行して、メギルェの性質を研究し続けた。
その結果、メギルェの女性比率が極限まで高まると、男性に戻らなくなることを突き止めた。

「メギルェの性を女で固定できれば、いよいよ『大地の鎖』を生み出す作業に移れる。これを踏まえて私は、お前たちにお膳立てをしてやった。ドラマティックで刺激的な、一生に一度の恋ともいえるストーリーを提供してやったわけだ」

夜の一坂小学校以降、幼い正文がメギルェと会えなくなったこと。
幼い正文が会いたい気持ちを抑えきれなくなり、洋館に侵入したこと。

洋館の地下空間でメギルェを見つけ、そこからふたりで脱出したこと。
小窪公園の巨木に見守られながら、初めてのキスをしたこと。

それら全てが、過去のプロフェッサーによる『お膳立て』だった。
彼の作り出したストーリーの上を、幼い正文とメギルェは必死に走っていたのである。

「そしてついに、全ての準備が整った」

”さあ、ここからだぞ”

「メギルェは今ここに、『大地の鎖』を生み出す」

”とくとご覧あれ、というヤツだ”

過去のプロフェッサーと現在のプロフェッサーが、
幼い正文と現在の正文にそれぞれ語る。

どちらのプロフェッサーも、時間軸に即した正文の右肩にあごを乗せるようにして、来たるべき未来を楽しげな口調で言葉にした。

「この『大地の鎖』をもって、私は」

”ついに始めることができる”

「これまで生きとし生ける生命全てに暴虐を働いてきた」

”地球という憎むべき惑星に”

「”罰を与えるのだ!」”

過去と現在のプロフェッサーが、同時に同じ言葉を口にした。
その直後。

「おごぼッ」

およそ人の声からはほど遠い、おぞましい『音』が。
メギルェの口から漏れた。


→ring.79へ続く

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