ring.79 オゾマシキ歪ミ | 魔人の記

ring.79 オゾマシキ歪ミ

ring.79 オゾマシキ歪ミ


崩れる。
崩れてゆく。

「ぐぼぁッ」

他愛ない言葉を交わしたその口が。
優しい微笑みをくれたその顔が。

「ぐぎ…えげぁおッ」

歪む。
歪んでゆく。

「あ、あぐっ、うぶぇ」

もう少しでつぼみから花へと変わりつつあった、あどけない少女そのものが。

「ぐべぁぼグリョバドゥロアァアアアアアアッ!?」

メギルェが絶叫する。
人の悲鳴からはかけ離れた『音』を、小さな口から放つ。

彼女の体は激しくけいれんし、拘束された手首の先にある10本の指が開いたり閉じたりを繰り返す。
涙なのか汗なのか、それとも他の体液なのか、木製の椅子から何か水のようなものが大量に滴り落ちる。

「えっ…?」

幼い正文は、突然のことに愕然とする。
理解が追いつかない。

メギルェの身に一体何が起こっているのか、彼には想像すらできなかった。

「め、メギ…ルェ……?」

「ギィヨバルブァアゴォオオオオッ!」

幼い正文が名前を呼んでも、怪物が吠えるような声しか返ってこない。
彼にキスをねだった可憐さなど、どこを探しても見当たらない。

「…? ……?」

幼い正文は言葉を失う。
そのすぐそばで、過去のプロフェッサーが気分の高揚を隠すこともせず、こんな言葉を言い放った。

「いいぞ、思った通りの反応だ!」

そしていつの間にか右手に持っていた、リモコンのスイッチを押す。
すると、これまで沈黙を守っていた機械が動き出し、細長い筒のようなものをメギルェに向けた。

筒は全部で12本あり、時計と同じ配置で等間隔に並んでいる。
その全てから、一斉に赤紫色の光線が射出された。

「ゲビャビオブラベハァアェエエエエエッ!?」

メギルェは全身に光線を浴び、赤紫色の光に包まれたようになる。
幼い正文はこれを見て我に返った。

「や、やめてよ!」

彼は過去のプロフェッサーに訴える。

「メギルェがくるしんでる! やめてあげて!」

「バカなことを言うんじゃない。何十年もかかってやっとここまでこぎつけたのだ。そぉら見てみるがいい、後頭部がふくらんできたぞ!」

「!?」

幼い正文は、過去のプロフェッサーが指差した先を見る。
その言葉通り、メギルェの後頭部が不自然に膨張していた。

彼らは正面から見ているというのに、ふくらんでいるのが後頭部だとわかる。
それほどまでに、膨張の度合いは常軌を逸していた。

そしてそれは発生する。

「ウベァ!」

常軌を逸した膨張の先にあるのは、破裂である。
メギルェの後頭部もまた、その法則からは逃れられない。

「よし、ストップ!」

過去のプロフェッサーは再びスイッチを押し、光線の射出を終えた。
それからしばらくすると、メギルェの体にさらなる変化が起こる。

後頭部が破裂すると同時に、その部分の頭皮も弾け飛んだようだ。
顔全体の皮膚がズルリと動いて、前へとはがれ落ちる。

メギルェの顔が歪んでいったのは、表皮と筋肉のつながりが断たれてしまったためだった。
すでにその断絶は全身に及んでいたらしく、彼女の皮膚はズルズルと椅子の前へ流れるように落ちていく。

落ちていく中で、先ほど破裂した後頭部の頭皮部分が皮膚自身の重みに耐えきれず裂けた。
光線の射出が終わると同時に拘束具が外れたこともあり、背もたれと座面に密着している部分以外がむけていく。

やがてメギルェの皮膚が、椅子の前に落ち溜まる。
椅子には、皮膚を失った赤黒い体が残った。

「ひっ…? うぇ……!?」

この頃になると、幼い正文は『何が起こっているのか』だけでなく、『自分が何を見ているのか』すらわからなくなった。

当然である。
心を通わせた相手が無惨な姿になって、正気でいられるはずがない。

正気でいられるとすれば、その人物はおよそ普通とはいえない。
普通の心や感覚といったものを持ち合わせていない。

「いいぞいいぞいいぞぉおおおッ!」

過去のプロフェッサーはまさに、普通ではなかった。
彼は心から嬉しそうに、赤黒いメギルェを眺めていた。

「今まさに! メギルェは人の姿を脱ぎ捨てた! 排出された体液の中に血液は存在しない! 全身の皮膚を失いながら一滴の血すら流さなかった! ついにたどり着いたぞ、私は……」

ここで、何もかもが真っ暗になった。
過去のプロフェッサーの声も途切れた。

幼い正文が気絶したのである。
彼自身は何もわからないまま目の前で起こっていることを見ていたのだが、肉体の方がついていけずにスイッチを切った格好だった。

彼が次に目覚めた時も、場所は地下空間のままだった。
しかし椅子には誰も座っておらず、代わりに何か黒い輪のようなものが浮いていた。

もしメギルェが椅子に座っていたなら、輪はちょうど彼女の頭上にあったかもしれない。
幼い正文がそんなことをぼんやり考えていると、誰かの声が聞こえた。

「あれこそが、『大地の鎖』だ」

過去のプロフェッサーである。
幼い正文は震え上がり、体を固くしてうつむいた。

そんな彼を見て、過去のプロフェッサーが笑う。

「怖がる必要はない。お前は大義をなしたのだ」

「……」

「これまでも、この星に罰を与えようと考える者はいただろう。だが、それを実行し得る手段を持つことはできなかった。核兵器で地表を破壊したところで、この星は痛くもかゆくもない。ただ人類の文明が終わるだけだ」

「………」

「しかし、私は本当の意味でこの星を罰する手段を得たのだよ。そしてお前はその一助となった。これ以上の大義がどこにある? どこにもありはしない」

過去のプロフェッサーはそう言うと、幼い正文に何かを投げてよこした。
それは空中で広がって、うつむいて床に座る幼い正文の頭に覆いかぶさる。

「…?」

幼い正文は顔を上げ、覆いかぶさってきたものを手に取る。
自身の目と手で調べ始めた。

表側は肌色で裏側は赤黒い。
材質は布ではないようだ。

ゴムシートのように思えるが、それにしては手ざわりがよすぎる。
いくつか穴があいており、派手に破れた箇所もあった。

「……??」

彼は不思議そうに首をかしげる。
そこへ、過去のプロフェッサーがこう告げた。

「それはお前へのごほうびだ」

「ごほうび…?」

「大義をなしたのだからな、それ相応のほうびが必要だろう。好きに使うといい」

「これ、なに……?」

「なんだ、わからないのか?」

過去のプロフェッサーがニヤリと笑う。
そして幼い正文にこう言った。

「そんなことを言っては悲しむぞ。お前にとってはファーストキスの相手だろう」

「え…?」

幼い正文はあらためてゴムシートのようなものを見る。
その時ちょうど、ふたつの穴が目に入った。

「…あ…」

幼い正文の脳裏に、あるものがよぎる。
それは可憐だったはずの少女が、醜く歪んだ姿。

「あっ、ああっ……!」

彼は気づいた。
過去のプロフェッサーが投げてよこしたものとは、

”まぁくん”

「あああああああああああああッ!」

メギルェの体から脱げ落ちた、上半身の皮膚だった。


この出来事は、幼い正文の精神を十二分に破壊した。
彼はメギルェに関する記憶を全て失い、快活だった性格も陰気なものへと変貌した。

特に陰気な性格は、引っ越し先での生活に暗い影を落とすことになる。
他の子どもたちからいいおもちゃにされ、それが高じて彼の学生生活は悲惨なものとなった。

さらには人生そのものも失敗し、未来にも絶望した。
ブラック企業から逃げ出して以降は、貯金を切り崩しながら人生の終わりを待つような生活をしていた。

「…不思議なものだな、阿久津 正文」

プロフェッサーが正文に語りかける。
過去の記憶は終わり、ふたりの意識は現在へ戻ってきた。

正文は球体状の部屋の床に座り、うつむいている。
その前方3メートルほどの位置にプロフェッサーが立っている。

少し離れた位置から眺めれば、ふたりが大階段とその先にある玉座を挟んでいるように見えるだろう。
その場合、左から正文、大階段とその先にある玉座、プロフェッサーという並びになる。

「私のために大義をなしたお前が、親の都合で引っ越し…」

プロフェッサーが話を続ける。

「引っ越した先で人生に失敗した。そしてまた一坂へ戻ってきた。キルメーカーで殺される側、チェインドとしてな」

「……」

正文は一言も言葉を発しない。
うつろな目を、ただ床に向けている。

時折体が小刻みに震えるものの、何らかの行動を起こすわけではなかった。

「もちろん私は、お前があの時の子どもだと最初からわかっていた」

プロフェッサーは左の口角をほんの少しだけ上げて笑う。

「不思議な夢を見たことも知っているぞ。あれはメギルェとお前が遊んだ記憶…彼女は『大地の鎖』と化してなお、お前がいる場所まで力を伸ばしてお前に夢を見せたのだ」

「………」

「彼女の真意は、残念ながら私の『変化』をもってしてもわからん。能力を使ってはたらきかけようとすると、『大地の鎖』を構成する輪にヒビが入るのでな…手が出せんのだ。しかし推測はできる」

プロフェッサーの顔が思わせぶりな笑みで歪む。

「おそらくメギルェは、お前に助けてほしいのだろうな。あの日、まだ人の姿をしていた彼女をお前が連れ出したように」

「…!」

正文の肩がピクリと震える。
それを見て、プロフェッサーは歪んだ笑みを顔中に広げた。

「だが悲しいかな、メギルェは知らん。今や自分があまりに巨大な存在になったことも、私が彼女を手放す気などないことも。そして救いの王子さまたるお前が、私の前ではあまりに脆弱であることもな」

プロフェッサーはそう言った後で、大げさな素振りでやれやれと呆れてみせた。

「そもそも、あの日お前たちが逃げ出せたのも、私がお膳立てしてやったからなのだ。それすらわからずお前に助けを求めるとは、あまりに愚か……」

と、近くで破裂音がした。
それは突然の出来事だった。

「…?」

プロフェッサーは言葉を止め、臭いをかぐ。

「血の臭い……だと?」

彼がそう認識した直後、さらに破裂音がした。
血の臭いが濃くなる。

「なんだ?」

どこから血臭が漂ってくるのか。
プロフェッサーはその発生源を探し始める。

その一方で。

「……」

正文の両目がぎょろりと動き、プロフェッサーの方を向く。
白目の部分はいつの間にか赤黒く染まり、まがまがしくギラついていた。


→ring.80へ続く

・目次へ