決着がつかないアルメニア人虐殺論争。
$かつて日本は美しかった


 トルコを語るとアルメニア人虐殺事件の話は避けて通れないでしょう。一般には第一次世界大戦中の事件を指しますが、19世紀後半からオスマン帝国内でアルメニア人の民族運動が盛んになって明治23年(1890年)、アルメニア人革命グループ「フンチャク党」が暴動を起こしています。

 明治27年(1894年)7月、アルメニア人とクルド人・トルコ人が衝突し、9月にはイスタンブールでも衝突しています。このときイスタンブールには茶道・宗偏流(そうへんりゅう)の第七世山田宗寿の養子・山田寅次郎がいました。寅次郎はトルコの軍艦エルトゥールル号の遭難事件をきっかけにイスタンブールにやってきて第一次世界大戦時まで滞在しています。寅次郎はこのときの暴動を雑誌「太陽」に寄稿しています。

 明治29年(1896年)にもイスタンブールで暴動が起こり、寅次郎はその渦中にいました。寅次郎は日本製品販売所にいましたが、外の様子が騒がしくなり、やがてダイナマイトの音とピストルの音が聞こえ、男女が寅次郎の店に飛び込んできました。寅次郎は日本刀を抜いて、男女を追い出し店を閉めています。

「『アルメニヤ』の壮士等数十人新に『ロンドン』より到着し、彼ら各々『ダイナマイト』を懐にし、先ず人の最も注意を引く可如きトルコ政府の中央銀行とも称すべき『オトマンバンク』に至り、係員と彼是口論の末、兼ねて隠し持たる『ダイナマイト』を机上に打ちつけたれば、同銀行の騒ぎ一方ならず、直ちに警察署に急報するや、巡査憲兵総出にて右暴徒を取鎮めんとし、遂に一大騒動」


 この事件はオスマン銀行占領事件と呼ばれており、これをきっかけにイスタンブールでアルメニア人への虐殺行為が行われていきます。寅次郎は市中に出てこのとき見聞きしたことを「コンスタンチノプル市の虐殺」で報告しました。

「終に『アルメニア』人一万余人を屠(ほふ)り、その後連日『アルメニア』人を拘留し或いは銃殺する事楢(なら)止まず」

 寅次郎はこの後もトルコに住み、トルコを生涯愛したのですが、このときのことは「彼らの心事如何に憐れむ可きならずや」とアルメニア人に同情しています。

 この後、多くのアルメニア人がトルコを脱出したので、沈静化するかに思われましたが、明治38年(1905年)7月21日のアブデュルハミト2世暗殺未遂事件、明治42年(1909年)4月13日アダナの虐殺でアルメニア人キリスト教徒1万五千から三万人がムスリム住民(イスラム教徒)に殺害される事件が起こっています。

 第一次世界大戦になるとトルコのアルメニア人の中からロシア軍に参加するものが現れ、アルメニア人のゲリラが活発化し、オスマン帝国にとって悩みの種となり、アルメニア人を強制移住させました。このときに大虐殺が行われたとし、アルメニア側は「オスマン帝国のアルメニア人住民が組織的に大虐殺された。死者数は百万から百五十万に達した。オスマン帝国の継承者であるトルコ共和国はこれを認め、その責任をとるべきだ」と主張し、トルコ側は「第一次大戦中、ロシアの侵攻によって戦場と化したトルコ東部で、およそ三十万人のアルメニア人と、少なくとも同数のトルコ人が紛争の中で死んだ。組織的虐殺というものではない」と反論しています。

 アルメニア人虐殺論争という果てしない論争を決着させようと、トルコ政府は協同の調査委員会を作ろうと提案していますが、アルメニア側は拒否しています。第二次世界大戦後もアルメニア人によるトルコ要人の殺害は頻繁に起こり、平成3年(1991年)のアルメニアのソ連邦からの独立後もトルコとの国交は直ぐには正常化できませんでしたが、近年になり歩み寄りが行われ、平成21年(2009年)には正常化が実現しています。



参考文献
 現代書館「明治の快男児トルコへ跳ぶ」山田邦紀(著)
 藤原書店「だから、イスタンブールはおもしろい」澁澤幸子(著)
参考サイト
 WikiPedia「アルメニア人虐殺」

添付画像
 26 December 1919 トルコ皇帝の警護(PD)

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