皇国の興廃此の一戦にあり.
「必ずこれを撃滅いたします」
司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると明治37年(1904年)12月に連合艦隊司令長官・東郷平八郎は参内し、明治天皇がバルチック艦隊との対決の見込みをお聞きになられ、上記のように答えたと書いています。普段無口で慎重な東郷平八郎が大言壮語とも言える発言をしたことで周囲は驚いたそうです。
明治37年2月、日露戦争が勃発。10月、ロシアはバルト海よりバルチック艦隊を出航させました。艦隊は長い航海により船底には貝や藻がびっしり付着し、機動性が低下していたのに対し日本連合艦隊は旅順艦隊、ウラジオ艦隊を撃滅した後は十分に整備され、最高のコンディションにありました。戦艦の数こそ日露4対7でしたが、装甲巡洋艦の数では8対3、巡洋艦は12対6であり、猛訓練によって砲の命中精度、発射間隔は連合艦隊がはるかに上でした。東郷平八郎はしっかりと勝算をもっていたことでしょう。
しかし、連合艦隊には大誤算が待っていました。明治38年(1905年)5月27日、バルチック艦隊がついに五島列島付近に到達します。連合艦隊は水雷艇と駆逐艦による連繋機雷作戦を予定していました。連繋機雷は4個の機雷を100メートルごとにロープでつないだもので、これを水雷艇と駆逐艦を使って敵の針路にまいておきます。敵艦隊にロープをひっかけさせ、機雷を手繰り寄せさせて打撃を与えるというものです。しかし、「本日天気晴朗ナレトモ波高シ」という有名な電文の通り、波が高くて水雷艇を発進することができず挫折してしまいます。
さらに、誤算があり、南に向かう連合艦隊は北へ向かうバルチック艦隊から西に1万メートルほど離れた位置ですれ違い、反転し、並航戦(並んで撃ちあう)予定でしたが、バルチック艦隊を発見したときには真正面に向き合う形になっていました。巡洋艦「和泉」がバルチック艦隊の位置を逐次知らせていたにも関わらず、報告よりも実際は1万メートル近くもずれていたのです。
旗艦・三笠の連合艦隊司令部は混乱しますが、東郷平八郎は面舵(右)に舵を取らせます。西風だったので風上をとったのです。午後1時55分Z旗が掲げられました。
「皇国の興廃此の一戦にあり各員一層奮励努力せよ」
そして、午後2時5分、敵との距離が8000メートルに達したところで東郷平八郎の右手は左方向へ半円を描きました。
加藤友三郎参謀長「艦長、取り舵(左)一杯に!」
東郷ターンと呼ばれるものです。ターンしている最中はこちらの砲は使えません。8000メートルは射程内であり、撃たれっぱなしになります。好機とばかりにロシアの軍艦が砲撃してきて、三笠は19発も砲弾を食らいました。横須賀にある三笠の艦橋にのぼったことのある人は想像してみてください。あの吹きさらしの艦橋で約15分間敵砲弾がボンボン飛んでくるのをじっと耐える恐ろしさを。東郷平八郎は一歩も動かなかったといいます。
この東郷ターンは無謀ではなく、既に連合艦隊の半分を失ってもバルチック艦隊をたたくということは軍部内で合意ができており、イギリスに発注した戦艦「鹿島」などの補充のメドもついていました。こうした背景もあり、また、波が高く照準がつけにくいこと、風下のバルチック艦隊は自艦が放った砲煙によってさらに照準がつけにくいことなど、計算に基づく総合的判断で東郷ターンを決行したと思われます。結果、丁字に違い形で理想的な陣形となりました。
ターンを終えた連合艦隊はバルチック艦隊に一斉射撃を加え、下瀬火薬を炸裂させました。新兵器の下瀬火薬は高温で炸裂し、敵艦に大火災を起こさせます。ターンを完成させた午後2時10分より、約30分間で優劣は決しました。バルチック艦隊の旗艦スワロフは戦闘不能、オスラービアが脱落しました。このときスワロフ(アレクサンドル三世とも)が舵の故障をおこし、回頭したのを三笠率いる第一艦隊は進路を変えたと判断し、追撃しますが、他のロシア艦はそのまま進んでおり、第二艦隊・出雲の上村彦之丞司令は舵の故障だと見抜き、そのまま追撃を続け、これが功を奏しました。
日没後は駆逐艦、水雷艇による夜襲をかけ、「鬼貫」の異名を持つ鈴木貫太郎中佐(のちに総理大臣)の第四駆逐戦隊は大戦果をあげました。翌28日には戦艦「ニコライ一世」が降伏し、大誤算から始まった日本海海戦は日本連合艦隊の完全勝利に終わりました。
参考文献
PHP研究所「歴史街道」20011.12
『バルチック艦隊を迎え撃つ連合艦隊・・・総合戦闘力を徹底比較する』松田十刻
『取り舵一杯!不運な偶然が重なる中、東郷は非常の決断を下す』赤城毅
『我に続け!麾下の参謀の眼を信じ、上村艦隊は独断で追撃へ』秋月達郎
文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
徳間書店「東郷平八郎と乃木稀典」
添付画像
連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮をとる東郷平八郎大将(PD)
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Battle of Tsushima
http://www.youtube.com/watch?v=Sr5foWKctuI
「必ずこれを撃滅いたします」
司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると明治37年(1904年)12月に連合艦隊司令長官・東郷平八郎は参内し、明治天皇がバルチック艦隊との対決の見込みをお聞きになられ、上記のように答えたと書いています。普段無口で慎重な東郷平八郎が大言壮語とも言える発言をしたことで周囲は驚いたそうです。
明治37年2月、日露戦争が勃発。10月、ロシアはバルト海よりバルチック艦隊を出航させました。艦隊は長い航海により船底には貝や藻がびっしり付着し、機動性が低下していたのに対し日本連合艦隊は旅順艦隊、ウラジオ艦隊を撃滅した後は十分に整備され、最高のコンディションにありました。戦艦の数こそ日露4対7でしたが、装甲巡洋艦の数では8対3、巡洋艦は12対6であり、猛訓練によって砲の命中精度、発射間隔は連合艦隊がはるかに上でした。東郷平八郎はしっかりと勝算をもっていたことでしょう。
しかし、連合艦隊には大誤算が待っていました。明治38年(1905年)5月27日、バルチック艦隊がついに五島列島付近に到達します。連合艦隊は水雷艇と駆逐艦による連繋機雷作戦を予定していました。連繋機雷は4個の機雷を100メートルごとにロープでつないだもので、これを水雷艇と駆逐艦を使って敵の針路にまいておきます。敵艦隊にロープをひっかけさせ、機雷を手繰り寄せさせて打撃を与えるというものです。しかし、「本日天気晴朗ナレトモ波高シ」という有名な電文の通り、波が高くて水雷艇を発進することができず挫折してしまいます。
さらに、誤算があり、南に向かう連合艦隊は北へ向かうバルチック艦隊から西に1万メートルほど離れた位置ですれ違い、反転し、並航戦(並んで撃ちあう)予定でしたが、バルチック艦隊を発見したときには真正面に向き合う形になっていました。巡洋艦「和泉」がバルチック艦隊の位置を逐次知らせていたにも関わらず、報告よりも実際は1万メートル近くもずれていたのです。
旗艦・三笠の連合艦隊司令部は混乱しますが、東郷平八郎は面舵(右)に舵を取らせます。西風だったので風上をとったのです。午後1時55分Z旗が掲げられました。
「皇国の興廃此の一戦にあり各員一層奮励努力せよ」
そして、午後2時5分、敵との距離が8000メートルに達したところで東郷平八郎の右手は左方向へ半円を描きました。
加藤友三郎参謀長「艦長、取り舵(左)一杯に!」
東郷ターンと呼ばれるものです。ターンしている最中はこちらの砲は使えません。8000メートルは射程内であり、撃たれっぱなしになります。好機とばかりにロシアの軍艦が砲撃してきて、三笠は19発も砲弾を食らいました。横須賀にある三笠の艦橋にのぼったことのある人は想像してみてください。あの吹きさらしの艦橋で約15分間敵砲弾がボンボン飛んでくるのをじっと耐える恐ろしさを。東郷平八郎は一歩も動かなかったといいます。
この東郷ターンは無謀ではなく、既に連合艦隊の半分を失ってもバルチック艦隊をたたくということは軍部内で合意ができており、イギリスに発注した戦艦「鹿島」などの補充のメドもついていました。こうした背景もあり、また、波が高く照準がつけにくいこと、風下のバルチック艦隊は自艦が放った砲煙によってさらに照準がつけにくいことなど、計算に基づく総合的判断で東郷ターンを決行したと思われます。結果、丁字に違い形で理想的な陣形となりました。
ターンを終えた連合艦隊はバルチック艦隊に一斉射撃を加え、下瀬火薬を炸裂させました。新兵器の下瀬火薬は高温で炸裂し、敵艦に大火災を起こさせます。ターンを完成させた午後2時10分より、約30分間で優劣は決しました。バルチック艦隊の旗艦スワロフは戦闘不能、オスラービアが脱落しました。このときスワロフ(アレクサンドル三世とも)が舵の故障をおこし、回頭したのを三笠率いる第一艦隊は進路を変えたと判断し、追撃しますが、他のロシア艦はそのまま進んでおり、第二艦隊・出雲の上村彦之丞司令は舵の故障だと見抜き、そのまま追撃を続け、これが功を奏しました。
日没後は駆逐艦、水雷艇による夜襲をかけ、「鬼貫」の異名を持つ鈴木貫太郎中佐(のちに総理大臣)の第四駆逐戦隊は大戦果をあげました。翌28日には戦艦「ニコライ一世」が降伏し、大誤算から始まった日本海海戦は日本連合艦隊の完全勝利に終わりました。
参考文献
PHP研究所「歴史街道」20011.12
『バルチック艦隊を迎え撃つ連合艦隊・・・総合戦闘力を徹底比較する』松田十刻
『取り舵一杯!不運な偶然が重なる中、東郷は非常の決断を下す』赤城毅
『我に続け!麾下の参謀の眼を信じ、上村艦隊は独断で追撃へ』秋月達郎
文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
徳間書店「東郷平八郎と乃木稀典」
添付画像
連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮をとる東郷平八郎大将(PD)
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Battle of Tsushima
http://www.youtube.com/watch?v=Sr5foWKctuI