ロシアはじわじわ軍事的に締め付けてきた。
明治32年(1899年)、外務省通商局長、林権助は韓国公使に任命されましたが、その赴任に先立って陸軍中堅参謀将校3人より送別会に招待されました。林権助が行ってみると送別会という雰囲気ではなく、3人の軍人しかいませんでした。その中の田村大佐が林権助に説明を始めます。
「今日は、日本の一大事に就いて、あなたに折り入ってお頼みがある。誰も呼びません。そう思ってください」
大佐は一枚の朝鮮地図を広げ、次のように述べます。
「こうして地図で見ると・・・特に、この辺をロシアに抑えられたら日本は必敗です。我々として、その場合のあらゆる作戦の対策を想定してみたが、絶対に日本の必敗です。分かっていただけるでしょうな」
林はしばらく考えてこう答えます。
「承知しました。朝鮮公使として、この地域でのロシアの策謀は、絶対に防止するつもりです。何が起こっても必ず引き受けましょう」
本来、こうした話は外務大臣、陸軍大臣、参謀総長という方面からの話になるのですが、日本を憂う将校3人が直接、朝鮮公使に話をつけにいったわけです。当時のロシアに対する「危機感」が伝わってくる話です。林公使はこうして、朝鮮半島でロシアが狙っていた馬山浦(まさんぽ)という方面の土地を商人を通じて買い占めてしまったのです。ここは対馬海峡を臨む場所で、ロシアは単独租界を作ろうとしていたのです。※1
明治33年(1900年)義和団事件が勃発し、ロシアは火事場泥棒のように満州を制圧しました。その後、ロシアはなかなか満州から撤兵しません。そして明治35年(1902年)に日本はイギリスと同盟を締結し、ロシアに対抗します。この同盟が功を奏し、4月にはロシアは撤兵に同意しました。しかし、明治36年(1903年)4月に約束の第二次撤兵を履行しません。さらに5月には満州のロシア軍の一部を森林保護の名目で竜岩浦朝鮮に進出させてきました。さらにロシアは韓国と租借条約を結びます。日本は強硬に抗議し、韓国政府は条約破棄を声明。しかし、ロシアは無視し、要塞工事をはじめ、ポート・ニコラスというロシア風名称に改称しました。さらにロシアは10月8日、奉天を占領し、清国軍を追い出し、日本が入り込めないようにしました。もう完全に露骨なロシアの侵略です。
この頃、林公使に朝鮮の地図を渡した田村大佐は参謀次長になっていました。しかし、この明治36年(1903年)10月に病死しています。国を憂いて無念だったでしょう。この後を継いだのが児玉源太郎です。12月に連合艦隊司令長官に東郷平八郎が就任しました。
日本は外交交渉として明治36年(1903年)8月から翌年1月まで「清国の独立と領土保全」「韓国での利権承認」を中心に主張しますが、ロシアは虫のいい条件しか出してこず、満州に戒厳令を布くにいたり、戦争準備を急ピッチで進めました。明治37年(1904年)1月13日、日本はロシアに最終提案を行いましたが、ロシアは何ら回答せず、2月4日にロシアと国交を断絶します。日本は巨大な国ロシアと国運をかけて戦うことになりました。
※1 司馬遼太郎著「坂の上の雲」によるとロシア海軍を分散化して各個撃破すべきと考えていた山本権兵衛にとっては余計なことだったと書かれている。
参考文献
「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二著
PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一監修
「大東亜戦争への道」中村粲著
「坂の上の雲」司馬遼太郎著
参考サイト
WikiPedia「馬山市」「龍川郡」
添付画像
旅順港内で擱座(かくざ)するロシア戦艦「レトウイザン」 防衛省防衛研究所提供 http://www.jacar.go.jp/nichiro/russian_ship_06.htm
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
お手数ですがこちらもよろしくお願いします。
「防人の詩」 さだまさし
http://www.youtube.com/watch?v=hWSFZleJ2O4
明治32年(1899年)、外務省通商局長、林権助は韓国公使に任命されましたが、その赴任に先立って陸軍中堅参謀将校3人より送別会に招待されました。林権助が行ってみると送別会という雰囲気ではなく、3人の軍人しかいませんでした。その中の田村大佐が林権助に説明を始めます。
「今日は、日本の一大事に就いて、あなたに折り入ってお頼みがある。誰も呼びません。そう思ってください」
大佐は一枚の朝鮮地図を広げ、次のように述べます。
「こうして地図で見ると・・・特に、この辺をロシアに抑えられたら日本は必敗です。我々として、その場合のあらゆる作戦の対策を想定してみたが、絶対に日本の必敗です。分かっていただけるでしょうな」
林はしばらく考えてこう答えます。
「承知しました。朝鮮公使として、この地域でのロシアの策謀は、絶対に防止するつもりです。何が起こっても必ず引き受けましょう」
本来、こうした話は外務大臣、陸軍大臣、参謀総長という方面からの話になるのですが、日本を憂う将校3人が直接、朝鮮公使に話をつけにいったわけです。当時のロシアに対する「危機感」が伝わってくる話です。林公使はこうして、朝鮮半島でロシアが狙っていた馬山浦(まさんぽ)という方面の土地を商人を通じて買い占めてしまったのです。ここは対馬海峡を臨む場所で、ロシアは単独租界を作ろうとしていたのです。※1
明治33年(1900年)義和団事件が勃発し、ロシアは火事場泥棒のように満州を制圧しました。その後、ロシアはなかなか満州から撤兵しません。そして明治35年(1902年)に日本はイギリスと同盟を締結し、ロシアに対抗します。この同盟が功を奏し、4月にはロシアは撤兵に同意しました。しかし、明治36年(1903年)4月に約束の第二次撤兵を履行しません。さらに5月には満州のロシア軍の一部を森林保護の名目で竜岩浦朝鮮に進出させてきました。さらにロシアは韓国と租借条約を結びます。日本は強硬に抗議し、韓国政府は条約破棄を声明。しかし、ロシアは無視し、要塞工事をはじめ、ポート・ニコラスというロシア風名称に改称しました。さらにロシアは10月8日、奉天を占領し、清国軍を追い出し、日本が入り込めないようにしました。もう完全に露骨なロシアの侵略です。
この頃、林公使に朝鮮の地図を渡した田村大佐は参謀次長になっていました。しかし、この明治36年(1903年)10月に病死しています。国を憂いて無念だったでしょう。この後を継いだのが児玉源太郎です。12月に連合艦隊司令長官に東郷平八郎が就任しました。
日本は外交交渉として明治36年(1903年)8月から翌年1月まで「清国の独立と領土保全」「韓国での利権承認」を中心に主張しますが、ロシアは虫のいい条件しか出してこず、満州に戒厳令を布くにいたり、戦争準備を急ピッチで進めました。明治37年(1904年)1月13日、日本はロシアに最終提案を行いましたが、ロシアは何ら回答せず、2月4日にロシアと国交を断絶します。日本は巨大な国ロシアと国運をかけて戦うことになりました。
※1 司馬遼太郎著「坂の上の雲」によるとロシア海軍を分散化して各個撃破すべきと考えていた山本権兵衛にとっては余計なことだったと書かれている。
参考文献
「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二著
PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一監修
「大東亜戦争への道」中村粲著
「坂の上の雲」司馬遼太郎著
参考サイト
WikiPedia「馬山市」「龍川郡」
添付画像
旅順港内で擱座(かくざ)するロシア戦艦「レトウイザン」 防衛省防衛研究所提供 http://www.jacar.go.jp/nichiro/russian_ship_06.htm
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
お手数ですがこちらもよろしくお願いします。
「防人の詩」 さだまさし
http://www.youtube.com/watch?v=hWSFZleJ2O4