雅楽の稽古を十年続けている。
法要儀式にて演奏を勤めるのが主な理由だ。
ただ、ときには儀式以外でも演奏することがある。
ある幼稚園で演奏した際には、楽しい経験をした。
園に到着すると、演奏者皆で速やかに支度にとりかかる。
まずは、太鼓、鉦鼓、箏、琵琶など大きな楽器を運ぶ。
「なにそれ?」
さっそく園児がやってきた。
「楽器だよ。後で演奏するから聞きにきてね」
「はーい」
元気に返事をしながら園庭に走っていった。
「なになに?」
しばらくして別の園児がやってきた。
「楽器だよ」
この後もかわるがわるやってきた。
なかなか作業が進まないのには困ってしまった。
しかし、みんな好奇心旺盛であることは頼もしいではないか。
演奏の準備が整うと園児たちがお遊戯室に入ってきた。
さっきまでのヤンチャな雰囲気とはちがう。
先生と一緒にきちんと整列している。
立派である。
みんなが座ったところで演奏を始める。
まずは管絃楽、つまり楽器演奏からスタートだ。
「うるさい」
「へんなの」
園児たちは、途端に耳を塞いだり、顔をしかめたり、ゲラゲラ笑ったりしはじめた。
素直な感想なのであろう。
微笑ましい光景である。
次に舞の演奏にうつる。
陵王だ。
すると今度は「こわい」と目を覆ってしまう子がいた。
一方で「かっこいい」と身を乗り出してくる子もいる。
舞の面は、確かに厳めしい。
怖がるのも無理もない。
またまた、園児達は感じたことをストレートに表現してくれた。
いずれも普通は受けることないリアクションだった。
だから、その分、とても楽しく有り難く演奏させもらった。
怖い思いをさせてしまった子には申し訳ないが……。
大人になると、自分の思いを直接表現することは少なくなる。
場の様子に合わせてしまう。
周囲との関係性を保つためにはやむを得ないことだ。
しかし、本心の表現を抑えすぎていると、自分の感覚がわからなくなってくる。
そして、抑えるためにエネルギーを使うために、不思議と疲れてくる。
少なくとも私はそうである。
だから、度合いの調整は必要だが、ときには自分の思いを表すことは大切だと考えている。
とは言うものの……。
言うは安し行うのは難しなのが悲しい。
法然上人の御教えに、以下のようなお言葉がございます。
『すなわち《観無量寿経》には解釈して、「表面では賢く善い人のようにふるまい、内心は愚かで怠るようなことがあってはならない」といっています。この解釈の意図しているところは、中味は愚かであるのに、外見は賢い人と思われたいとふるまい、また内には悪いことをしているのに、外見上は善人のようにみせかけ、さらに内心はなまけ心を持っているのに、外見は努力しているような態度をとるのを、真実ではない心というのです。中味も外見もありのままで、何の飾る気持ちのないのを、至誠心と名付けているのです』
【春秋社 法然全集 第三巻 大橋俊雄先生訳P30】
ありがとうございました。