へんなの! | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

雅楽の稽古を十年続けている。


法要儀式にて演奏を勤めるのが主な理由だ。
 

ただ、ときには儀式以外でも演奏することがある。
 

ある幼稚園で演奏した際には、楽しい経験をした。
 

園に到着すると、演奏者皆で速やかに支度にとりかかる。
 

まずは、太鼓、鉦鼓、箏、琵琶など大きな楽器を運ぶ。

 

「なにそれ?」

 

さっそく園児がやってきた。
 

「楽器だよ。後で演奏するから聞きにきてね」

 

「はーい」

 

元気に返事をしながら園庭に走っていった。
 

「なになに?」

 

しばらくして別の園児がやってきた。

 

「楽器だよ」

 

この後もかわるがわるやってきた。

 

なかなか作業が進まないのには困ってしまった。

 

しかし、みんな好奇心旺盛であることは頼もしいではないか。
 

演奏の準備が整うと園児たちがお遊戯室に入ってきた。

 

さっきまでのヤンチャな雰囲気とはちがう。

 

先生と一緒にきちんと整列している。
 

立派である。
 

みんなが座ったところで演奏を始める。
 

まずは管絃楽、つまり楽器演奏からスタートだ。
 

「うるさい」

 

「へんなの」

 

園児たちは、途端に耳を塞いだり、顔をしかめたり、ゲラゲラ笑ったりしはじめた。

 

素直な感想なのであろう。
 

微笑ましい光景である。

 

次に舞の演奏にうつる。

 

陵王だ。

 

すると今度は「こわい」と目を覆ってしまう子がいた。

 

一方で「かっこいい」と身を乗り出してくる子もいる。
 

舞の面は、確かに厳めしい。

 

怖がるのも無理もない。
 

またまた、園児達は感じたことをストレートに表現してくれた。
 

いずれも普通は受けることないリアクションだった。

 

だから、その分、とても楽しく有り難く演奏させもらった。
 

怖い思いをさせてしまった子には申し訳ないが……。
 

大人になると、自分の思いを直接表現することは少なくなる。

 

場の様子に合わせてしまう。
 

周囲との関係性を保つためにはやむを得ないことだ。
 

しかし、本心の表現を抑えすぎていると、自分の感覚がわからなくなってくる。
 

そして、抑えるためにエネルギーを使うために、不思議と疲れてくる。

 

少なくとも私はそうである。
 

だから、度合いの調整は必要だが、ときには自分の思いを表すことは大切だと考えている。

 

とは言うものの……。

 

言うは安し行うのは難しなのが悲しい。


法然上人の御教えに、以下のようなお言葉がございます。

『すなわち《観無量寿経》には解釈して、「表面では賢く善い人のようにふるまい、内心は愚かで怠るようなことがあってはならない」といっています。この解釈の意図しているところは、中味は愚かであるのに、外見は賢い人と思われたいとふるまい、また内には悪いことをしているのに、外見上は善人のようにみせかけ、さらに内心はなまけ心を持っているのに、外見は努力しているような態度をとるのを、真実ではない心というのです。中味も外見もありのままで、何の飾る気持ちのないのを、至誠心と名付けているのです』

【春秋社 法然全集 第三巻 大橋俊雄先生訳P30】

ありがとうございました。