75/100 松山城【日本100名城】
松山城
宇和島城、大洲城の後は松山城です (8月10日のことです)
「腹減った」、「暑い」、「駐車場が空かない」が松山での三重苦でした(;´Д`)ノ
松山城の近辺は民間の駐車場が沢山あるのですが、どこも満車。なんとか停めたところは、ちょっと松山城から離れていました
宇和島で名物の「鯛めし」を食べたかったのですが、朝早かったために開店しておらず、大洲城付近では月曜休日の店が多かったようで、ご当地グルメにはありつけず、しかたないので松山まで何も食べずに我慢していました
駐車場が少し遠かったので、松山城までたどり着くまでに、松山のご当地グルメがあるだろうと思っていたのですが、なんと、宇和島郷土料理の「かどや」さんが新装オープンしているではありませんか!?
食べたかった「鯛めし」と「じゃこ天」が松山で食べられる幸せ(笑)
じゃこ天は魚のすり身を揚げたもので、大根おろしと醤油の相性抜群でしたね
鯛めしは、ご飯の上に鯛をのせて、生卵とゴマの入ったちょっと甘い醤油ベースのたれを溶いて、かけて食べるんですけど…
美味しい!
でも、もっと鯛の切り身をガッツリ食べたい。鯛は高級食材になっちゃいましたから、そんなにガッツリ盛る事はできないんでしょうけど、タレが濃厚な味なので、上品な鯛じゃなくてもコリコリ感のある魚でも美味しいんじゃないかな~ (鯛めしは1500円也。美味でした。ご馳走様でした)
松山城へのメインストリートに「あなたの笑顔で、ごはん3杯はいけます」と掲げられていましたが、鯛めしを食べた感想という事で、ちょっと私なりにアレンジしておきました(笑)
メインストリートを更に登っていくと、ロープウェイ、リフト乗り場が現れ、どちらかを使って山頂まで行きます (二ノ丸史跡庭園から徒歩で行くこともできますが、この酷暑で歩きは無理だわ)
松山城をつくったのは加藤嘉明ですが、乗り場のさらに奥にひっそりと佇んでいました (戦国時代と同じく、相変わらず目立ちませんな(笑))
加藤嘉明は好きではないんですよね。なにせ石田三成を襲った7将のひとりですので…。
まあ、加藤清正や福島正則、黒田長政よりかは嫌いじゃないけど(><;)
嘉明は豊臣恩顧ながら大坂の陣にも行ってるし、虫喰南蛮という小皿10枚の秘蔵の逸品を近習が誤って1枚を割ってしまっても、近習 を叱るどころか、残り9枚の小皿をことごとく打ち砕いて、「9枚残りあるうちは、1枚誰が粗相したかといつまでも士の名を残す。家人は我が四肢であり、如何に逸品であろうとも家来には代えられぬ。」と言ったという、私が好きな逸話の持ち主でもあるので…
ロープウェイもリフトも、高所恐怖症の私でも何とかなったレベルでした (ちなみに行きがリフトで、帰りをロープウェイにしました。炎天下でのリフトは逃げ場のない暑さで厳しかったですけどね)
リフトを降りるとそこは長者ヶ平という曲輪で、ここから天守を目指して緩やかな階段を登っていきます
緩やかな階段を真っ直ぐに進むと、本丸の周囲を囲む高石垣が現れます (こんな10m級の高石垣が広大な本丸を囲っているんです。まさに圧巻!)
写真の右手の櫓は太鼓櫓で、奥の方に小さく見えるのが大天守ですが、真っ直ぐに進んでも大天守の方には行けません。まさに戦う城として構築したのがよく分かる造りになっています
ここからは航空写真に大天守まで行く道順と通らなければならない門を記し、それぞれの門や付随する櫓などを写真掲載していきますので、足軽になったつもりで、松山城を攻略してください(笑)
まずは太鼓櫓の下まで行くと、180度道が折れ曲がって戻る感じになるのですが、ここに戸無門があります。寛永~正保年間の建立で、鏡柱にも門扉をつけた形跡がないようなので、初めから戸が無く、この先にある筒井門へおびき寄せるためのトラップだと言われています
一説には、昔は扉があったんですが、門限に間に合わなかった奥女中が、扉が閉まっていたため通る事ができず、無理に通ろうとして守衛に殺されてしまうのですが、それから夜な夜な女中の霊が出て、扉を開けてほしいと…。そのために扉を外したという言い伝えもあるようです (今の戸無門よりも昔に造られた門の話なのかもしれないですね)
戸無門を過ぎると左手に松山城最大の門である筒井門が現れます。櫓門になっていて、敵を櫓から飛び道具で攻撃することが出来るのですが、攻撃はそれだけではなく、筒井門の横には敵には見えない隠された門である「隠門」があります (筒井門は昭和に焼失し、今のは再建されたものですが、隠門は慶長年間の築城時から現存しているものだそうです)
さて、ここで問題です。
次の写真で隠門はどこにあるでしょうか?色で答えてください(笑)
正解は黄色の筒井門の石垣の奥にあるのですが、黄色以外は、一般的に社会の窓といわれる隠しているものが違う門ですね(爆)
筒井門で戦闘が繰り広げられている際に、この隠門から城兵がいきなり出てきて不意打ちをくらわすために造られた門だそうです
筒井門・隠門を通ると、目の前に太鼓櫓、太鼓門西塀など太鼓門に付随する「壁」が出現して、右手にある太鼓門を通るまでに、集中砲火を浴びせる仕組みになっており、筒井門が第1防衛線なら、ここが第2防衛線で、この先の本丸へは容易に行くことができません (写真は太鼓櫓だと思う…(汗))
太鼓門を通ると南北に長い本丸に出て、遠くに本壇といわれる連立式天守群が見えます
松山城は重要文化財が21棟もあり、復興建造物は30棟。
本丸と本壇に建屋が集中していて、訪れる者を圧倒させてくれます
本丸は南北2つの峰を埋め立てて、その敷地をつくったと言われていますが、その峰の谷底にあった泉を井戸としたそうで、直径2m深さ44mもあり、当時の技術では通常掘ることができなかったとの事 (44mの深さから水をくみ上げるのも一苦労じゃないですか(@_@))
本丸を東西に分断する溝があるのですが、この溝が2つの峰を埋め立てた跡かと思っていたのですが、南北の峰を埋め立てたというので、これだと東西の峰になっちゃうから違うのかな? (この溝が何なのか知っている人はいませんかね?)
さて、本壇前には加藤嘉明のキャラクター「よしあきくん」がおりましたので、ここでも大一大万大吉のネックレスを目の前でちらつかせてあげました(笑)
関ケ原の戦功で伊予20万石の領主となった嘉明は、1602年より勝山を城地と定めて着工を開始し、完成が1627年という長きにわたり松山城を造ったのですが、完成目前の1627年2月に会津40万石に移封されてしまうのです (25年の歳月を費やして作った城を蒲生氏郷の孫に渡さなければならない無念)
会津は伊達や上杉を押える要の地でもあり、徳川幕府としては藩主不在となった会津に信頼している外様の藤堂高虎を入れようとしたのですが、高虎はこれを固辞。代わりに高虎が嘉明を推薦して移封が決定したとの事
実は藤堂高虎と加藤嘉明は隣国同士でありながら、非常に仲が悪く、高虎が嘉明を推薦した際に、私情では仲が悪い嘉明だが、幕府安泰のためには堅実で正直者の嘉明しか適任者がいないといって推挙したらしいです (本当は嘉明を遠ざけたかっただけじゃないの?(笑))
嘉明も愛着のある松山から離れたくはなかったようで、会津への転封は石高倍増で大出世なのですが、初めは固辞していたようで、嫌々松山を離れたというのが本音のようです
さて、いよいよ本壇に入りますが、手前が一ノ門南櫓、3重の建物は小天守、奥に見えるのは南隅櫓 (本壇は6mの石垣で囲われていて要塞そのもの)
正面から見たところ。正面に大天守があり、右手に一ノ門と一ノ門南櫓、左手に小天守という大型枡形虎口になっていて、ここを突破するのは容易ではないのが想像できますね。尚、左側の石垣にある黒い跡は、昭和8年に放火により小天守が焼け落ちた跡だそうです
放火犯は西日本13府県にまたがる学校や寺院など45か所に放火し、人命は失われなかったのですが、放火の最高刑である死刑となりました (俺が犯人じゃないよ(笑))
松山城放火の前年に道後温泉などで不審火があり、松山城が狙われる可能性が高いと警戒していたそうですが、結局、放火されてしまい、小天守や南北隅櫓、多聞櫓が焼失してしまいましたが、大天守は類焼を免れたそうです
その大天守は、当初は5重5層の壮大なものだったようですが、後に松山藩主になった松平定行が1635年に3重に改築したそうです (構造上の問題か、幕府への配慮かわかりませんが、わざわざ3重にするなんて…)
大天守は1784年の元旦の夜に落雷で焼失 (しかし、真冬に雷? しかも元日の夜って…。 不吉な1年の始まりって感じですよね~)
すぐに再建のお伺いを幕府にして、許可されたにもかかわらず、財政難で着工できず、ようやく完成したのが安政元年(1854年)で、それが現存天守となっています (安政元年って、前年にペリーが来航しているような時期で、もう天守なんか不必要な時代背景だったと思うんですけどね)
さて、ここから一ノ門、二ノ門、三ノ門と通っていきますが、二ノ門を過ぎると大天守が現れ、ここから大天守に上がる事は出来ないので、三ノ門、そして筋鉄門を通って、ようやく天守にたどり着くことができるという、大型の枡形虎口オンパレードとなっています
一ノ門
二ノ門
大天守
三ノ門
筋鉄門
筋鉄門を通って、はじめて天守に上がれる中庭が現れますが、四方はこんな感じで、ここに入った足軽は四方から撃たれて、助かる事はできないでしょうね
城内はちょっとした博物館になっていましたが、暑くてほとんど記憶に残っていません(汗)
天守最上階からの風景 (本丸の全景と松山の街並みが美しいです。ひとつはジオラマ機能を使って撮影)
四国屈指の名城は、加藤嘉明が瀬戸内の向こうにいる毛利の長州藩を仮想敵国にして構築したと思うのですが、「戦う城」でありながら市民に愛されたお城でもあり、そうでなければ幕末に天守など再建しようなどという機運が盛り上がらなかったと思うのです
松山が生んだ聖俳・正岡子規も、松山城の俳句を多く残しています。特に有名な 「松山や 秋より高き 天守閣」
この俳句は秋の松山城を詠んだ句ですが、真夏に行った私はこんな俳句をよんでみました
ダジャレかっ!(笑)
そんなこんなで75個目のスタンプゲットっす!
ご参考
松山城の探索は昼食時間を除いて 約2時間半 (じっくり探索したら半日は必要)
総消費エネルギー量 459kcal
活動エネルギー量 238kcal
脂肪燃焼量 35.9g
歩数 5,413歩
歩行距離 4.1km
宇和島城、大洲城の後は松山城です (8月10日のことです)
「腹減った」、「暑い」、「駐車場が空かない」が松山での三重苦でした(;´Д`)ノ
松山城の近辺は民間の駐車場が沢山あるのですが、どこも満車。なんとか停めたところは、ちょっと松山城から離れていました
宇和島で名物の「鯛めし」を食べたかったのですが、朝早かったために開店しておらず、大洲城付近では月曜休日の店が多かったようで、ご当地グルメにはありつけず、しかたないので松山まで何も食べずに我慢していました
駐車場が少し遠かったので、松山城までたどり着くまでに、松山のご当地グルメがあるだろうと思っていたのですが、なんと、宇和島郷土料理の「かどや」さんが新装オープンしているではありませんか!?
食べたかった「鯛めし」と「じゃこ天」が松山で食べられる幸せ(笑)
じゃこ天は魚のすり身を揚げたもので、大根おろしと醤油の相性抜群でしたね
鯛めしは、ご飯の上に鯛をのせて、生卵とゴマの入ったちょっと甘い醤油ベースのたれを溶いて、かけて食べるんですけど…
美味しい!
でも、もっと鯛の切り身をガッツリ食べたい。鯛は高級食材になっちゃいましたから、そんなにガッツリ盛る事はできないんでしょうけど、タレが濃厚な味なので、上品な鯛じゃなくてもコリコリ感のある魚でも美味しいんじゃないかな~ (鯛めしは1500円也。美味でした。ご馳走様でした)
松山城へのメインストリートに「あなたの笑顔で、ごはん3杯はいけます」と掲げられていましたが、鯛めしを食べた感想という事で、ちょっと私なりにアレンジしておきました(笑)
メインストリートを更に登っていくと、ロープウェイ、リフト乗り場が現れ、どちらかを使って山頂まで行きます (二ノ丸史跡庭園から徒歩で行くこともできますが、この酷暑で歩きは無理だわ)
松山城をつくったのは加藤嘉明ですが、乗り場のさらに奥にひっそりと佇んでいました (戦国時代と同じく、相変わらず目立ちませんな(笑))
加藤嘉明は好きではないんですよね。なにせ石田三成を襲った7将のひとりですので…。
まあ、加藤清正や福島正則、黒田長政よりかは嫌いじゃないけど(><;)
嘉明は豊臣恩顧ながら大坂の陣にも行ってるし、虫喰南蛮という小皿10枚の秘蔵の逸品を近習が誤って1枚を割ってしまっても、近習 を叱るどころか、残り9枚の小皿をことごとく打ち砕いて、「9枚残りあるうちは、1枚誰が粗相したかといつまでも士の名を残す。家人は我が四肢であり、如何に逸品であろうとも家来には代えられぬ。」と言ったという、私が好きな逸話の持ち主でもあるので…
ロープウェイもリフトも、高所恐怖症の私でも何とかなったレベルでした (ちなみに行きがリフトで、帰りをロープウェイにしました。炎天下でのリフトは逃げ場のない暑さで厳しかったですけどね)
リフトを降りるとそこは長者ヶ平という曲輪で、ここから天守を目指して緩やかな階段を登っていきます
緩やかな階段を真っ直ぐに進むと、本丸の周囲を囲む高石垣が現れます (こんな10m級の高石垣が広大な本丸を囲っているんです。まさに圧巻!)
写真の右手の櫓は太鼓櫓で、奥の方に小さく見えるのが大天守ですが、真っ直ぐに進んでも大天守の方には行けません。まさに戦う城として構築したのがよく分かる造りになっています
ここからは航空写真に大天守まで行く道順と通らなければならない門を記し、それぞれの門や付随する櫓などを写真掲載していきますので、足軽になったつもりで、松山城を攻略してください(笑)
まずは太鼓櫓の下まで行くと、180度道が折れ曲がって戻る感じになるのですが、ここに戸無門があります。寛永~正保年間の建立で、鏡柱にも門扉をつけた形跡がないようなので、初めから戸が無く、この先にある筒井門へおびき寄せるためのトラップだと言われています
一説には、昔は扉があったんですが、門限に間に合わなかった奥女中が、扉が閉まっていたため通る事ができず、無理に通ろうとして守衛に殺されてしまうのですが、それから夜な夜な女中の霊が出て、扉を開けてほしいと…。そのために扉を外したという言い伝えもあるようです (今の戸無門よりも昔に造られた門の話なのかもしれないですね)
戸無門を過ぎると左手に松山城最大の門である筒井門が現れます。櫓門になっていて、敵を櫓から飛び道具で攻撃することが出来るのですが、攻撃はそれだけではなく、筒井門の横には敵には見えない隠された門である「隠門」があります (筒井門は昭和に焼失し、今のは再建されたものですが、隠門は慶長年間の築城時から現存しているものだそうです)
さて、ここで問題です。
次の写真で隠門はどこにあるでしょうか?色で答えてください(笑)
正解は黄色の筒井門の石垣の奥にあるのですが、黄色以外は、一般的に社会の窓といわれる隠しているものが違う門ですね(爆)
筒井門で戦闘が繰り広げられている際に、この隠門から城兵がいきなり出てきて不意打ちをくらわすために造られた門だそうです
筒井門・隠門を通ると、目の前に太鼓櫓、太鼓門西塀など太鼓門に付随する「壁」が出現して、右手にある太鼓門を通るまでに、集中砲火を浴びせる仕組みになっており、筒井門が第1防衛線なら、ここが第2防衛線で、この先の本丸へは容易に行くことができません (写真は太鼓櫓だと思う…(汗))
太鼓門を通ると南北に長い本丸に出て、遠くに本壇といわれる連立式天守群が見えます
松山城は重要文化財が21棟もあり、復興建造物は30棟。
本丸と本壇に建屋が集中していて、訪れる者を圧倒させてくれます
本丸は南北2つの峰を埋め立てて、その敷地をつくったと言われていますが、その峰の谷底にあった泉を井戸としたそうで、直径2m深さ44mもあり、当時の技術では通常掘ることができなかったとの事 (44mの深さから水をくみ上げるのも一苦労じゃないですか(@_@))
本丸を東西に分断する溝があるのですが、この溝が2つの峰を埋め立てた跡かと思っていたのですが、南北の峰を埋め立てたというので、これだと東西の峰になっちゃうから違うのかな? (この溝が何なのか知っている人はいませんかね?)
さて、本壇前には加藤嘉明のキャラクター「よしあきくん」がおりましたので、ここでも大一大万大吉のネックレスを目の前でちらつかせてあげました(笑)
関ケ原の戦功で伊予20万石の領主となった嘉明は、1602年より勝山を城地と定めて着工を開始し、完成が1627年という長きにわたり松山城を造ったのですが、完成目前の1627年2月に会津40万石に移封されてしまうのです (25年の歳月を費やして作った城を蒲生氏郷の孫に渡さなければならない無念)
会津は伊達や上杉を押える要の地でもあり、徳川幕府としては藩主不在となった会津に信頼している外様の藤堂高虎を入れようとしたのですが、高虎はこれを固辞。代わりに高虎が嘉明を推薦して移封が決定したとの事
実は藤堂高虎と加藤嘉明は隣国同士でありながら、非常に仲が悪く、高虎が嘉明を推薦した際に、私情では仲が悪い嘉明だが、幕府安泰のためには堅実で正直者の嘉明しか適任者がいないといって推挙したらしいです (本当は嘉明を遠ざけたかっただけじゃないの?(笑))
嘉明も愛着のある松山から離れたくはなかったようで、会津への転封は石高倍増で大出世なのですが、初めは固辞していたようで、嫌々松山を離れたというのが本音のようです
さて、いよいよ本壇に入りますが、手前が一ノ門南櫓、3重の建物は小天守、奥に見えるのは南隅櫓 (本壇は6mの石垣で囲われていて要塞そのもの)
正面から見たところ。正面に大天守があり、右手に一ノ門と一ノ門南櫓、左手に小天守という大型枡形虎口になっていて、ここを突破するのは容易ではないのが想像できますね。尚、左側の石垣にある黒い跡は、昭和8年に放火により小天守が焼け落ちた跡だそうです
放火犯は西日本13府県にまたがる学校や寺院など45か所に放火し、人命は失われなかったのですが、放火の最高刑である死刑となりました (俺が犯人じゃないよ(笑))
松山城放火の前年に道後温泉などで不審火があり、松山城が狙われる可能性が高いと警戒していたそうですが、結局、放火されてしまい、小天守や南北隅櫓、多聞櫓が焼失してしまいましたが、大天守は類焼を免れたそうです
その大天守は、当初は5重5層の壮大なものだったようですが、後に松山藩主になった松平定行が1635年に3重に改築したそうです (構造上の問題か、幕府への配慮かわかりませんが、わざわざ3重にするなんて…)
大天守は1784年の元旦の夜に落雷で焼失 (しかし、真冬に雷? しかも元日の夜って…。 不吉な1年の始まりって感じですよね~)
すぐに再建のお伺いを幕府にして、許可されたにもかかわらず、財政難で着工できず、ようやく完成したのが安政元年(1854年)で、それが現存天守となっています (安政元年って、前年にペリーが来航しているような時期で、もう天守なんか不必要な時代背景だったと思うんですけどね)
さて、ここから一ノ門、二ノ門、三ノ門と通っていきますが、二ノ門を過ぎると大天守が現れ、ここから大天守に上がる事は出来ないので、三ノ門、そして筋鉄門を通って、ようやく天守にたどり着くことができるという、大型の枡形虎口オンパレードとなっています
一ノ門
二ノ門
大天守
三ノ門
筋鉄門
筋鉄門を通って、はじめて天守に上がれる中庭が現れますが、四方はこんな感じで、ここに入った足軽は四方から撃たれて、助かる事はできないでしょうね
城内はちょっとした博物館になっていましたが、暑くてほとんど記憶に残っていません(汗)
天守最上階からの風景 (本丸の全景と松山の街並みが美しいです。ひとつはジオラマ機能を使って撮影)
四国屈指の名城は、加藤嘉明が瀬戸内の向こうにいる毛利の長州藩を仮想敵国にして構築したと思うのですが、「戦う城」でありながら市民に愛されたお城でもあり、そうでなければ幕末に天守など再建しようなどという機運が盛り上がらなかったと思うのです
松山が生んだ聖俳・正岡子規も、松山城の俳句を多く残しています。特に有名な 「松山や 秋より高き 天守閣」
この俳句は秋の松山城を詠んだ句ですが、真夏に行った私はこんな俳句をよんでみました
ダジャレかっ!(笑)
そんなこんなで75個目のスタンプゲットっす!
ご参考
松山城の探索は昼食時間を除いて 約2時間半 (じっくり探索したら半日は必要)
総消費エネルギー量 459kcal
活動エネルギー量 238kcal
脂肪燃焼量 35.9g
歩数 5,413歩
歩行距離 4.1km