今回のブログでは洋画家林武(1896~1975)のことを書いてみたい。林武が亡くなってすでに50年ほどが経過したが、今ではこの林武を知る若い人はあまり多くないと思う。だが、生前は大変有名な画家で、東京芸大で油絵科の主任教授を務め、文化勲章の受章者でもあった。特に画家としての人気は抜群で、戦後の好景気の中で高額で絵の売れた画家の一人であった。
また、絵を志す若者達への影響も絶大であった。当時の私も、神がかり的な苦闘の末生み出された、黒い輪郭線に特徴のあるギラついた林武の厚塗りの絵を、どこか羨望の気持ちで眺めていたのが懐かしい。
林武 熱海風景 1957年
この林武には著書もあり、講談社より出版された「美に生きる:私の体験的絵画論」は、美術関係の若者に圧倒的に支持され、多くの読者を獲得した。本の内容は三代続く国学者の家に生まれたが、生活は困窮していて大変な苦労をして成長し、絵画の道に進んだことなど、自身の特異な生い立ちや、長く厳しい模索の末、獲得した独特な構図法の説明が主であったように思う。いずれも神が乗り移ったような迫力のある内容だったが、読者を煙に巻いたような面も否定できなかった。
この林武は1975年に、東京慈恵会医科大学付属病院で肝臓がんで死去している。78歳であった。
小説家や画家や音楽家などは、死を境に世間の注目を集めることがなくなり、その業績も含めて忘却の彼方に消え去ってしまうのが世の常である。
しかし、林武の場合はあまりに極端な感じがしないでもない。確かに没後20年ほどが経過した1996年から1997年には、大きな回顧展が全国7か所を巡回して開催されたこともあったが、生前名声をほしいままにしていた林武にしては、公立の美術館などで、その仕事が顧みられることは殆どなかった。
このように没後、その受容に大きな変化が見られる林武であるが、残された作品の中には、今日の目から見ても大変魅力的で、得難い才能であったことを強く感じさせるものもある。一方、文化勲章など社会的栄誉に浴し、注目されることが多かった晩年の仕事は内容が薄く、形式化した印象は否めない。そして、そのような絵を乱作した。
林武の画業を考えると、良くも悪くも戦後の昭和という時代が大きく影響しているように感じる。
例えば1945年以降しばらくの、林武の目を瞠るような制作の発展、充実は、強く戦後日本の復興の勢いと連動していたように思える。また晩年の仕事の空疎化も好景気で社会は沸騰していたが、冷静さを欠いた1960年後半からの狂乱の時代の影響とも捉えることが出来るのではないか。そんな尋常でない時代の渦に林武も巻き込まれていたのかもしれない。
(私が好きな林武の作品)
その1、本を持てる婦人像 1922年制作
林武を生涯支え続けた妻の若い時の肖像である。この作品で林武は二科賞を取った。因みに前年やはり二科展に初出品した妻の肖像は樗牛賞を受賞している。しかし、この作品は戦災で焼失した。
二年連続の受賞で林武は世間に認められ、絵を続けていく自信を持つことが出来た。
「本を持てる婦人像」は、何故か顔、体、手の大きさやバランスに違和を感じさせるところがある。だが、そのことで却って妻の初々しさが、より引き出されているようにも思う。
林武の絵の特徴の一つはその執拗さにある。そして、この執拗さは岸田劉生が主催した草土社の影響が考えられる。この絵も長い時間をかけて厳しく模索したに違いない。その結果として、深い色調と美しく微妙な調子が生み出されている。
その2、くしけずる女 1949年制作
この作品で林武は第一回の毎日美術賞を受賞した。また、この絵は現在岡山県倉敷市の大原美術館に所蔵されていて、美術館を訪れこの絵の前に立つたびに、新たな感動を覚える林武の最高傑作である。
この絵では林武の長年の関心事であった絵画の平面化や構図、それにバランスの問題が、意識を突出させることなく見事に、そして、自然な形で解決されている。少ない色かずの抑えられた色調が美しく、特に毛糸のセーターの質感の表現が見事で大変魅力的だ。
その3、静物 1950年制作
明治以降の日本人の画家の手になる静物画の中で、私はこの絵が一番好きだ。庶民的で生活感のある題材を用いていて、林武はこれらをいかに組み合わせるかで、試行錯誤したことと思う。描法も描いては布でふき取りを執拗に繰り返していて、何とも言えない美しい絵肌に仕上がっている。色も落ち着きと深みが表現されていて、心に素直に伝わってくるしみじみとした情趣があり、身近な世界なのだが侵し難さがある。題材の質感表現も含めて、西洋人には絶対描けない日本人の油絵を強く感じる。特に空間の青みを帯びた灰色の名状しがたい色が魅力的である。
その4、熱海風景 1958年制作
熱海は戦後、首都圏からあまり離れてない温泉地として大変栄えた。黒潮洗う太平洋に面した熱海は、山も海もある風光の美しい観光地だった。その熱海の傾斜地に、戦後は温泉施設や大きなホテルが次々に建てられ、賑やかで魅力的な景観を誇った。林武以外にもこの熱海を描いた画家は多く、同じく独立美術協会の画家児島善三郎は雄大さを感じさせる構図で多くの名作を残した。
林武が描いた熱海は児島善三郎の作品とは大きく印象を異にしている。林武が熱海で描きたかったのは、傾斜地に犇めくように建てられたホテルや温泉宿などの建物が、下方の海に向かう雪崩れるような動きだったに違いない。林武は建物を意図的に斜めに描くことで、そんな動きをより強調している。この絵ではチューブから絞り出した絵具をペインティングナイフで直接画布に塗り付けていて、絵具の生な感じが強い。また林武の絵を特徴づける黒い輪郭線も見られる。
私がこの絵で強く感じるのは林武の覇気の強さかもしれない。そんな強い覇気で、林は強引に熱海の風景をねじ伏せ、自身の意図を実現しているように思える。
その5、ノートルダム 1960年制作
1960年に林武が渡欧した際に描いたパリのノートルダム寺院である。この絵は神がかり的で強い緊張感があり、林武がフランス滞在中に描いた作品の中の最高傑作である。
巨大で複雑な構造を持つ歴史的建築物を、油絵の具の特質を生かし厚塗りで暗く重厚に表現している。しかし、手前の大きな樹木は、意図的に明度をあげた鮮やかな緑で、荒々しい筆触なのだが平面的に表されている。また部分的だが、赤や白の色が置かれていて、特に赤が効果的だ。これが具体物を表しているのかは不明だが、抽象画のような効果も配慮されているのが分かる。奥の寺院と前方の樹木の表現の対比が、この絵に強い緊張感を与え魅力あるものにしている。
林武の後期の作品
参考のため、林武の後期の作品を3点載せる。私はこの時期の林の作品の質には疑問を感じている。
花帽子の少女 1969年制作
朝霧富士 1970年制作
裸婦 1972年制作
(画家と時代や社会)
最近、日本の失われた30年が話題にされることが多い。これは1990年代初めに起きたバブル崩壊から現在に至るまでの、長期にわたる日本経済の低迷を意味しているようだが、現状を見てみると30年を経過しても依然打開の兆しは全くなく、すでに失われた40年に向かっているという指摘すらある。
この日本の現状に、絶望的な気持ちになるのは私だけではないと思う。そして、こんな状況を何とか打開して欲しいのだが、政治家にも国にも期待が持てない。
失われた30年の原因については、YouTubeを見ていると多くの陰謀論がまことしやかにささやかれ、確たる意見を持たず影響を受けやすい私などは、首肯する部分も確かにある。しかし、そのような意見に常に惑わされていることに、最近の私は少し懐疑的になって来ている。
そんな事より心配なのが、長期にわたる経済の低迷と、その結果日本社会にも将来された明らかな貧富の格差と、ごく一部の金持ち階層になれなかった大多数の若者の心を覆う、展望の無さや無力感ではないだろうか・・・・・・
さて前述したように林武の画業を考えると、時代や社会との強い関係を考えざるを得ない。
戦後大変な名声を博し時代に掉さして活躍した感のある林武であったが、そのような状況に冷静さを欠き慢心になっていたであろうことも否定できない。また、後期には描いていた絵の質も極端に低下してしまった。結果として、没後の再評価の動きの鈍さにも繋がっているのは間違いない。画家と社会の関係は微妙である。社会が画家を後押しすることは滅多にないが、そのことを理解しないで社会を欺けば、社会からの逆襲はかなりきついと言える・・・・・・・
私の地元の事であるが、絵を描く仲間が集まると1970年や1980年それに1990年の頃の、北九州の美術の状況が話題になることが多い。その頃は北九州は鉄をはじめ素材生産の拠点であり、それなりに町は潤っていて活気もあった。美術の世界も百万都市の北九州で10人程度の画家が絵を売って生きていた。だが、現在は絵を売って生きていると思しきものは一人もいない。唯物的な歴史観や経済学を私は信用してないが、それでも社会の上部構造が下部構造との関係で崩壊していることは疑いようがない。林武が生活に困窮していた大正時代、それに昭和の時代の戦前、戦中も林武を含め庶民の生活は厳しかった。そして、例外的にそんな貧乏から解放された、戦後の束の間の時代が終わり、また貧困な日本に逆戻りしたのかもしれない。だが、世界は飛躍的に進歩し、複雑にもなった。こんな時代、困窮にあえぎ、絵を描いて行くことの困難さを痛感する。