生誕130年・没後60年を超えて

須田国太郎の芸術

三つのまなざし 絵画・スペイン・能狂言

 

 

アーヴィラ 油彩 カンヴァス      1920

 

 

 

 

 須田国太郎の大きな展覧会が今年の1月5日から2月18日までの会期で隣の大分県の大分市美術館で開催された。私はこの展覧会に二度行った。だが、近い場所であっていたら、もっと頻繁に出かけていたと思う。それほどまでに、須田国太郎の仕事は充実していて、心惹かれる内容だった。

 須田国太郎の代表作が並ぶ展示の様子は重厚で、どこか異様な感じがし、その強い存在感は絵を見る者を圧倒する。また明と暗のコントラストの激しい画面は、目を凝らして観ると美しく深い陰影に覆われていて、何重にも塗り込められた絵具の層の中から鮮やかな色が浮かび上がってくる・・・・・・・

 須田国太郎が没して、今年で60年目にあたるようだが、須田の絵は大変個性的で、同時代の誰の絵とも似てない。そんな唯一無二とも思える須田国太郎の絵であるが、何らかの影響を受けて、この独特なスタイルが作り上げられたことは間違いないし、その影響関係や過程を知ることは興味深い。

 だが、須田国太郎について調べて行くと分からないことだらけで、その解明は簡単ではない。そこに私は須田国太郎が生まれ育ち、途中4年間の滞欧があるが、終生そこで暮らした1200年以上の歴史がある京都の文化の奥深さと、須田国太郎自身の内面の謎を強く感じる。



(画家としての遅い出発、そのきっかけになった1932年東京資生堂ギャラリーでの個展)
 この須田国太郎(1891~1961)は近代の日本洋画を代表する巨匠の一人であるが、かなり特異な経歴を経て画家になった。明治24年に京都で、裕福な商人の家庭の末子として生まれた須田国太郎は、はじめから画家になるための道を進んだのではなく、京都帝国大学では美学や美術史それに哲学などを学んだようだ。そして、大学での卒業論文のテーマは「写実主義」であった。その後は大学院に進み「絵画の理論と技巧」を研究する。しかし、大学院の2年目にドイツ文学の講師であったヘルリッチに油彩画の独学を諫められ、関西美術院に入学し本格的にデッサンを習った。その時、須田国太郎は26歳になっていた。

 翌年の7月には大学院を退学し、次の年の1919年に外遊する。ヨーロッパ滞在中に居を置いたのはスペインの首都マドリッドで、そこを拠点にプラド美術館では模写に取り組み、ヨーロッパ各地を精力的に旅して美術史の研究に勤しんだ。

 

 

 

 1923年大正12年にヨーロッパから帰国した須田国太郎は、1925年大正14年から1933年昭和8年まで、和歌山高等商業学校の講師となり美術工芸史を教えた。また同年結婚もしている。

 帰国後の須田国太郎は友人のアトリエで裸婦制作に取り組んだり、奈良や山陰へよく写生旅行に出かけたりして積極的に絵画制作に励んだ。また関西美術会展には毎年のように出品した。

 

 

 

 そんな須田国太郎に大きな転機が訪れたのは1932年の東京銀座・資生堂ギャラリーでの初個展であった。この個展は一般的には注目されることは無かったが、日本の洋画史の中で大変意味のある重要な展覧会であった。なぜこの個展が、当時評判にならなかったかについてはいくつかの理由が考えられるが、決定的な要因は画壇での須田国太郎の知名度の低さにあったと思う。まず挙げられることは、須田国太郎が美術学校出身ではなかったことだ。そのため指導を受けた師も少なく、画友もほとんどいなかった。また渡欧し絵を学んだ場所も、当時一般的であったフランスのパリなどではなく、スペインの首都マドリッドであった。さらに帰国後も絵は描いていたが、団体展に所属しての活動はしていなかった。また絵も当時の一般的な絵とは印象を異にしていて、暗くある意味異様であった・・・・・・・

 世間では話題にもならなかった個展であったが、渡欧中に面識のあった独立美術協会の会員であった川口軌外や里見勝蔵などは、須田国太郎の絵に強い関心を示し独立美術協会への入会を勧めた。また哲学者で、詩人谷川俊太郎の父でもある谷川徹三は須田国太郎の絵を買い求めた。その絵は個展で唯一売れた「アーヴィラ」で現在京都国立近代美術館の所蔵になっている。

 さて1932年当時は話題にもならなかった須田国太郎の資生堂ギャラリーでの第1回個展であるが、62年後の1994年に同じく資生堂ギャラリーで再現展が開催された。この再個展にはいくつかの意図があったと考えられるが、初個展をした1932年当時の日本では、須田国太郎の絵が意味するところを正当に評価できなかった反省の意味が込められていたことは否定できない。そこで62年後に再び、多くの知見を結集して、須田国太郎の作品の真の意味を探ろうとしたのだと思う。はたしてこの試みは成果を得たのであろうか?

 

 

 

 1932年の東京資生堂画廊での初個展であるが、全部で37点の作品が展示された。具体的にはティチィアーノ、ティントレット、エル・グレコなどの模写、(トマール全景)(アーヴィラ)(カ―セレス)(サングエッサ)(モヘンテ)(ダロカ)(モントン)などの他、帰国後の【西斑牙山間(ベーニャ・マウラ)】(法観寺塔婆)(ムセオの一隅)(グレコ・イベリアの首)(夏日農村)(蔬菜)(婦人像)(裸婦1)(裸婦2)などであった。

 

 

模写 エル・グレコ 「復活」

 

 

 

法観寺塔婆 1932年 油彩カンヴァス

 

 

 

 

グレコ・イベリアの首  油彩カンヴァス 1931

 

 

 

 

 

蔬菜 油彩カンヴァス  1932年

 

 

 

 東京資生堂ギャラリーでの個展に並べられた作品のうちの多くが、今回の大分市美術館での展覧会にも展示されていた。資生堂ギャラリーの個展は評判にならず、来場者も少なかったようだが、今回展示されている作品を見て、私がまず驚いたのは作品の質の高さであった。また、後の須田国太郎を特徴づける様式が、1932年当時にはすでにほぼ完成されていたことだ。並べられた須田国太郎の絵を、私は共に京都出身で三歳先輩であり、すでに日本洋画壇の巨匠であった安井曾太郎や梅原龍三郎などと、比べてみたい気持ちになるが、梅原龍三郎などは全盛期は、むしろもう少し後になるので、須田国太郎の絵の方が画格の点で優っていたかもしれない・・・・・・

 この個展の後、須田国太郎は独立美術協会の会員に迎えられ、画家として遅い出発を果たす。そして、その後は主に独立美術協会を発表の場にして目覚ましい活躍をし、日本洋画壇の中での存在感を増していった。また1956年にはベニスビエンナーレにも参加した。

 

(草土社を主宰した岸田劉生と須田国太郎は同じ明治24年6月に生まれた。しかし誕生日は劉生が23日で国太郎は6日だった)

 

 

 意外に思われるかもしれないが、須田国太郎は、日本の近代洋画史で大変重要な画家である岸田劉生と、実は同じ1891年(明治24年)に生まれている。日にちは須田国太郎が6月6日で岸田劉生が6月23日なので、須田国太郎が17日岸田劉生より早く生まれたようだ。

 夭折の天才画家岸田劉生と40歳を過ぎて画壇にデビューした須田国太郎は、全く無縁であったように思えるが、二人には深く通底するものがあった。実はこの二人は共に近代洋画の動きから離れ、近代の元になったルネサンスやバロックなどのクラシックに注目し、その意味を今の時代に問い直そうと試みている。これには日本洋画が幕末にヨーロッパから突如齎され、近代以前の前史がないと言う背景があった。須田国太郎はこの日本洋画を、常に断片で、常に自己の根を持っていない切り花的芸術と捉えていた。

 だが、関心を示したのが劉生の場合は北方ルネサンスであり、劉生の絵には影響を受けたデューラーやファン・アイクの影響が顕著なのに対して、須田国太郎はイタリアルネサンスのベネチア派のティチィアーノやそれに続く系譜のティントレット、それにスペインに移り活躍したマニエリスムのエル・グレコなどに、関心を示し熱心にその作品の模写にも取り組んだ。しかし、須田国太郎がそれらの画家の絵の影響を受けて描いたとされる絵を実際に見てみると、岸田劉生ほどにはその影響がストレートではなく、因果関係を解明するのは結構難しい。

 

 

 須田国太郎の絵を成立させている要素はベネチア派などの影響だけでなく、大変複雑で謎に満ちている。須田国太郎には西洋画と東洋画の綜合という意図も早くからあったようだ。また現代に生きる画家としての表現も強く意識していたであろうことは間違いない。

 東洋画ではその頂点にあるとされる中国の宋元画の影響は当然考えられるし、それ以外の絵も意識していたかもしれない。宋元画では風景画だけでなく花や鳥、動物なども描かれていて、その絵画技術の高さだけでなく精神性の表現も特別であり、西洋にはない別の深い世界が具現されている。そして、須田国太郎の特に後期の絵では、そういう精神的で深い世界に対する志向が強く感じられると思う。

 須田国太郎は近代のヨーロッパの画家の中では、セザンヌの影響が大変大きい。絵画の中から物語性を排除し、造形性を優先させるやり方もその影響と考える。また須田国太郎の絵はある意味抽象的であり、戦後の世界を席巻した抽象絵画にも拒絶よりも、ある意味で親近感を持っていたのではないだろうか?

 須田国太郎の絵に、そんな複雑な影響関係を探るのは、大変な労力を要するかもしれないが興味深い試みかもしれない。

 

(私が最も好きな須田国太郎の絵)

 

アーヴィラ 1920

 

 私が好きな須田国太郎の絵を5点選ぶとすれば、まず1点目は展覧会の最初に飾られていた(アーヴィラ)である。この絵は私が中学生か高校生の時の美術の教科書に載っていて、思い出深い絵である。須田国太郎らしい巧みな構成の絵で、色調は透明色をうまく使っていて美しい。また、マチエールも魅力的だ。この絵を描いた1920年当時、須田国太郎は29歳くらいであった。誰も言わないから私が敢えて言うが、須田国太郎はすでに天才だった!

 

グレコ・イベリアの首 1931

 

 

 2点目は1931年に制作された(グレコ・イベリアの首)である。この絵は滞欧からの帰国後、留学中に撮影した写真をもとに描かれたが、写真のままではないようだ。鏡に映った像なども加わり、絵に心理的で、不思議な奥行きを与えている。独特な色彩も筆のタッチも須田国太郎以外では考えられない。

 

夏 1942

 

 

 3点目は1942年作の(夏)である。炎天下の農村を描いたと思われるが、絵には強い日差しで生じる影が描かれていて、その影も強く暗い。この絵では、絵には描かれていないが、限りなく眩しい陽光を感じ、ふらつくような感覚になる。大変な労作のようで、絵の具を塗っては、ふき取りと削りを繰り返している。また、その跡が堅牢で、名状しがたい美しいマチエールになっている。

 

冬 1942

 

 4点目には今回の展覧会には展示されていなかったが、(夏)と対をなす、同じく1942年に制作された(冬)である。この絵では寒くて暗い冬の森の厳しい様子が描かれていて、水墨画のような絵である。(夏)とは絵の印象が大変違っている。いったん塗った絵具を全面的に布でふき取ったり、ペインティングナイフで大胆に削り取っていて、具体物がよくわからず抽象画のようにも見える。須田国太郎の深い内面を表している絵だと思う。私にとってはこの(冬)と3点目に挙げた(夏)の2点が須田国太郎の最高傑作である。

 

鷺 1955

 

 5点目は1955年制作の(鷺)である。5点目はこの作品を入れるかで迷った。須田国太郎は後期で多くの鳥の絵を描いている。この展覧会でも鷲の絵があったが、私は須田の鷲の絵はあまり好まない。それよりも、むしろどこにでもいる鷺の様な鳥の絵に、生命観や魂の神秘さを強く感じて共感する。

 

 (須田寛の追懐)

 

 今回の須田国太郎展では、従来の須田国太郎観を揺さぶるような切り口が多く示されていて、主催者の強い意欲を感じた。また、展覧会の図録もいつになく充実していた。

 その図録の中で私が最も興味深く読んだのが、子息である須田寛氏が書かれた追懐であった。ある時期からの須田国太郎は日本洋画壇の巨匠の仲間入りをしていたが、絵はあまり売れず厳しい経済的状況で生涯を終えたようである。そのため自分の家を持つことは、おろかアトリエをつくることもできなかった。

 その借家は暗い部屋が多く、二階の4畳半の部屋だけが日が当たり明るかったようだ。当然その狭い畳の間が須田国太郎のアトリエになったが、須田寛氏もその部屋の隅に机を置き勉学に励んだ。当然寛氏は父親の絵を描く背中を見ながら勉強していた。その期間は就職するまでの、15年間に及んだようだ。追懐はその時の様子を書いたものである。須田国太郎の写真では、土門拳などが撮影した、背広姿で、制作中の絵の前で正座している写真が残っているが、これは冗談ではなかったのだ!それ位に真面目に絵を描いても画家の生活は厳しかった!

 寛氏の追懐に戻る。これを読むと須田国太郎の絵が出来る課程の秘密部分も分かる。いつも最初は明るい色で描き始め、いったん描き終えるが、その後大胆にも黒でそれらを塗りつぶし、乾いた後、また新たに描き起こして行き、絵はどんどん暗く重苦しくなって行ったようだ。また、絵はいつも簡単にはいかず長い時間をかけて制作された。しかし、それでもうまくいかず途中でいったん放棄することもあったようだ。私が最も興味深かったのは、絵を描く過程で苦悶し、時には狂気の世界にも入り込んでいた事を知ったことだ。