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逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

精神医学における正式な「鬱病」の定義が


ある種の自己矛盾(※所謂、Catch-22 問題)を起こしていることは良く知られているが、


とりあえず「本物の鬱病」が存在していると仮定しよう。



本物が存在するということは、偽物の存在も知られている、ということでもある。


なるほど。確かにネット上で鬱病に関する情報を調べてみると、


「偽りの鬱病」が現役の精神科医によって糾弾されているサイトを見付けることも出来る。



しかし、問題の本質は、「なぜ偽物が蔓延しているのか」というよりも、


「何が偽物を生み出しているのか」という点にある。



その解答は実に単純だ。


ようするに、健全な人間たるもの、いついかなる時でも気分が滅入ってはならない、


といったような強迫観念が社会に根付いてしまったからだ。




どんな人物であれ、生きていれば暗い気分になることもある。


というより、そういった事態は必然的に訪れる。



それにも関わらず、鬱病という精神疾患の存在が知られるようになるにつれ、


「憂鬱な気分が続くことは病気である」というところから、


次第に「憂鬱な気分になることが病気である」といった考え方へと短絡されるようになってしまった。



その行き着くところは、「健全ならば憂鬱にはならない」という非現実的な強迫観念である。


(※実際のところ、常に精神が昂ぶっている人物は、別の精神疾患を有している可能性が高い)



そうした理想像が広範に受け入れられれば、数日間くらい気分の落ち込みが続いただけで


自らを鬱病ではないか、と心配するような空気が醸成されてしまうのも無理はない。



もっとも、精神科医らにとって見れば、


誤解に基づくとはいえ、精神科を受診する人々が増えて困ることはない。


よって、医者が積極的に誤解を解こうとする理由はないし、


むしろ、そうすることで「本物」の患者を適切な治療から遠ざけてしまうこともなりかねないだろう。




とはいえ、繰り返しになるが、生きていれば暗い気分になることもある。


また、憂鬱な気分が長く続くというのは、大抵の場合、環境に原因があるものだ。


例えば、人間関係の不調や健康不良、生活苦といったものが挙げられる。



そうした環境に由来する精神失調は、残念ながら医者には手の施しようがない。


せいぜい精神安定剤を服用させて様子を見る、といった程度が関の山だろう。



よって、鬱病を疑って精神科や心療内科を受診する前に


自分がどうにもならないことをどうにかしようとして、あるいはそれから逃げるために


無関係な医者に頼ろうとしていないか、よく自問する必要がある。



実際、治療に用いられる向精神薬は、薬学的な作用から見れば、


法的に摂取・所持が禁じられている違法薬物と大差なく、


その服用には既知・未知を含めて多くのリスクが伴う。



また、あまり言及されることはないが、


患者が「元の自分」に戻ろうとする限り、鬱病が回復することは決してない。



たとえ投薬治療が功を奏したとしても、患者が「元の自分」に戻ることは出来ない。


完治、あるいは完解の後にあるのは「病を乗り越えた自己」であり、


罹患以前の「元の自分」では決してあり得ないのだ。

全国版のニュースにもなったようだけど、どうやら知人が殺されたらしい。


正確に言えば、殺害された上で人気のない山林に放置されたようだ。



ところで、他者を殺すほど愛したり、


あるいは憎んだりするという心情は、正直言って理解し難いものだ。


実際、主客の分化が曖昧な状態にある稚拙な精神においてのみ、


そういった蛮行が可能になるのだろう。



だが、相手に対する執着が嵩じて起こる殺人事件というものは、


現に古今東西、散発しているものだ。


語弊を恐れずに言えば、日常茶飯事と言っても良い。



また、虚構・創作の類に慣れ切った現代人にとっては、


「陳腐」の一言で済まされてしまうような出来事なのかもしれない。



他方、毎年同じような防寒着が流行るにも関わらず、


ほんの僅かなデザインや色味の違いが大事件であるかのように持て囃される。


少なくとも、一個人における非業の死よりは、人々の脳裏に長く留まり続けるのだろう。



そのようにして、私たちの日常は非日常化され、非日常は日常化される。


知人の死は凡庸な異常事態として評価され、消費され、消化され、


そして、今はもう顧みられることもない。

近年、日本でも違法薬物の乱用が蔓延しつつあると言われているものの、


それでも依然として薬物乱用に厳しい国であることには違いない。


それどころか、世界有数に厳しい国とも言えるだろう。



しかし、それは、かつて日本という国が薬物汚染大国だった、


という不名誉な歴史的事実に端を発してることをご存知だろうか。



まず、太平洋戦争が開始される前から戦中、戦後にかけて


数多くの日本臣民が覚醒剤をキメまくって仕事に勤しんでいた、という歴史的事実がある。


所謂、「ヒロポン」という名の覚醒剤が「滋養強壮剤」として売られ、一大流行となっていたのだ。



そもそも、覚醒剤の元祖とでも言うべき薬効成分、エフェドリンやメタンフェタミンを


世界で始めて生薬から抽出した人物こそ、何を隠そう日本人研究者である。


つまり、俗称「シャブ」の生まれ故郷は、万世一系たる天皇家を戴く瑞穂の国なのだ。



そんなわけで、「日本精神の鑑」たる神風特攻隊の英霊たちも


太平洋の海上でクスリをキメて、愉快な気分で鬼畜米英に突っ込んで逝った。


よく都市伝説では、特攻直前に「お母さん!」などと絶叫していたという話があるが、


実際のところは、ヒャッホーヾ(^ρ^)ノ テンノーヘーカ☆マンセー ← This is Bushido!!!


…といった具合だったのだろう。無残極まりない。



ちなみに、戦時中は戦費を確保するため、


軍部が麻薬密売に手を染めていた、という驚愕の事実がある。


何てことはない。関東軍が満洲を求めたのは、広大な麻薬生産地が欲しかったからである。



実際、わざわざ東大に所属する一流の研究者たちを使い、


麻薬成分の採取効率を高めたケシを開発・栽培までしている。



それを用いて生成した麻薬(=アヘン)を中国大陸にて公設密売団を通じて売り続けた。


麻薬の生産のみならず、ヤクの売人までしていたなんて素敵やん。



当時、孫文を首班とする中国政府は、国内において脱アヘン運動を強力に推進していたのだが、


日本から良質なクスリが大量に出回るものだから、手の打ちようがなかったらしい。



まあ、大東亞戦争は「アジアを解放する聖戦」だったらしいんだけど、


その内実はアヘン戦争前の英国と全く同じっぽい臭いが。


というか、その一点に関して言えば、現在の北朝鮮と何も変わらない。犯罪国家レベル。



また、当時の諜報員は、戦時中で貨幣が役立ちにくかったこともあり、


良質なアヘン樹脂を「工作費」として手渡されたという。


つまり、現地でアヘンを売りさばいて活動費に当てたり、情報収集の道具として用いたわけである。


結局のところ、中国大陸における麻薬ビジネスに関しては、日本に英国を批判する資格はない。



何はともあれ、このようにクスリに塗れた犯罪大国という恥辱の過去を踏まえ、


現在の日本政府は違法薬物に対して格別に厳しい措置を講じるようになった。



注連縄の材料にもなり、医療用途として使えなくもないアサ(=大麻)に対しても、


やはり厳重な規制が掛けられており、公的には栃木県でしか生産されていない。


(※ただし、私的にはマンションの一室で栽培されていたり、野外で自生していたりするけど)



結局のところ、戦前の「武士道」を支えるものは覚醒剤でしかなかったわけだが、


日本は世界で唯一の被爆国のみならず、


人類史上初めて、覚醒剤を使って戦争を続けた薬物大国でもあったわけである。


(※現在は米国あたりがやってるので、世界で唯一というわけでもない)

子を持つ母親の中は、「家庭」という「ちっぽけな幸せ」を守りたいという理由で


「なりふりなんて構っていられない」といった心境になる者もいる、という。


結果、自分の家庭を守るためになら、差別でも犯罪でも何でもするわけだ。



もっとも、すべての人間が自分の欲望を満たすために


「なりふりなんて構っていられない」ということになったら、


社会が回っていかなくなることは言うまでもない。



すなわち、一部の母親たちが(心理的には)死に物狂いになって


個人的欲求を満足することが出来るのは、それを可能にする社会の寛容さが前提にある。



けだし、なりふりを構っていられない母親たちは、社会の安定性にタダ乗りする寄生虫である。


端的に言って、NEET や暴力団に勝るとも劣らない社会の不安定要因に違いない。



もっとも、大抵の母親たちは思慮分別を弁えており、社会に害を為すことは決してない。


これは、あくまで一部の異常人格者たちのお話である。



福島差別の本質は、原発立地県の偏在にある。



すなわち、原発があらゆる都道府県に存在していれば、


福島で起きている大惨事は、どんな地域の人々にとっても


「明日は我が身」と深刻に受け取ってもらえるだろう。



そもそも、原発は「安全でコストが安い」とされる一方で、


限られた地方公共団体にしか置かれていない。


しかも、そのいずれもが人口希薄地に置かれている。



原発を推進する論理が「安全で低コスト」であるのだとすれば、


僻地の寂れた漁村にばかりを用地として確保するのではなく、


大都市の中枢部、例えば、都庁の裏側や大阪城の敷地内にも建造するべきだ。



そうすることで、初めて福島で起きた原発事故の深刻さを


国民全員が理解できるようになるのだろう。



…といったようなことを 天馬都知事 が言ってたんだけどね。