逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯 -18ページ目

逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

長文書いた後、何かの短縮コマンドを間違って押してしまったせいで


画面が移り変わって、せっかく書いた文章を保存し損ねたりすると、


一気に生きる意欲を失う (;ω;`)ブワッ



Ctrl+Z を押したつもりだったんだけど、


どういうわけか「前に戻る(Alt+左)」のような挙動をしやがった。



何ヶ月に一回かはやっちまうんだけど、


ミスに再現性がないから防ぎようがなも。



まあ、大したこと書いてないから良いか。



というか、こういうことを書いて失敗した自分を慰めるのは、


人としてどうかと思う。

意外にも「脳幹論 」を適切に批判している言説が少ないことに気付いたので、


出来るだけ分かり易く理論の間違いを指摘してみるテスト。




「脳幹論」とは、脳幹を鍛えることによって


青少年の情緒障害 を矯正することが出来る、という教育理論。



なお、この理論を提唱する戸塚宏 氏によれば、


現代社会は人間に与える肉体的・精神的な負荷が低いため、


動物的本能を司る脳幹が衰え、結果として情緒障害が発生するという。



この理論には、以下の批判が考えられる。


1. 脳幹は情動(=感情・情緒)の制御と関係ない


2. 情動の制御を司るのは、主に大脳皮質である


3. ローレンツ博士が提唱したわけではなく、戸塚氏の思い付きである。


4. 戸塚氏の理論は、手法的・理念的に矛盾している。


5. 脳幹論は、戸塚氏の自己弁護でしかない。




< 1. 脳幹は情動の制御と関係ない >


脳幹 」とは脳の一部だが、「間脳 (の一部である視床下部 )」を除くと、


人間の情動には全く関わっていない


脳幹の主な役割は、呼吸や発汗、脈拍といった生命維持に関わる機能である。


(※狭義の「脳幹」は「間脳」を除くので、情動とは全く無関係である)



脳幹の一部である「視床下部」は、本能的感情を司る部位だが、


感情の制御自体は別の部位(※大脳皮質)によって行われる。



ちなみに、同じく間脳に含まれる「視床 」は、


大雑把に言えば、五感 のうち嗅覚以外を大脳に伝える部位であり、


仮に鍛えることが出来たとしても、身体機能が強化される程度だろう。




< 2. 情動の制御を司るのは、主に大脳皮質である >


視床下部を完全に除去すると、本能的な欲求がなくなる。


ただし、これは「意欲を完全に失う」ということと等しい。



つまり、河の流れにたとえると、視床下部は水源 である。


河の氾濫(=情緒障害)を抑えるためには、水源を枯渇させるのではなく、


下流に堤防を築くべきである。その堤防の役割を果たすのが、「大脳皮質」だ。



例えば、誰でも授業や仕事の最中に空腹を覚えることはあるものだが、


教室や仕事を抜け出して勝手に食事を採ったりしないのは、


視床下部が生み出す欲求を大脳が適切に判断して、行動を強力に制御しているからだ。


(※下等生物や昆虫などには不可能なことである)



つまり、情緒障害に伴う問題行動を矯正しようとするならば、


当然ながら大脳皮質に注目する必要がある。




< 3. ローレンツ博士が提唱したわけではなく、戸塚氏の思い付きである >


「脳幹論」の提唱者は、コンラート・ローレンツ (※ノーベル賞を獲得した動物行動学者)


ということになっているようだが、これは端的に事実誤認である。


ローレンツ自身は、「脳幹を鍛えることが情動の抑制に繋がる」などと主張していない。



ローレンツによれば、人間性は環境によってのみ醸成されるという。


これは「氏か育ちか 」論争における「経験論 」という立場である。



そして、現代文明が人間性を破壊するといった鋭い批判を投げかけ、


ルソー のように「自然に還れ!」と主張した。



戸塚氏は、このローレンツの現代文明批判を読んで自説に結び付けたらしい


実際、「野生の自然と比べて肉体的・精神的な負荷が低い現代文明が


人間の動物性を司る脳幹を衰えさせた」と主張している



ところが、ローレンツが主張したのは「人間性の堕落」であり、


戸塚氏の言うように「人間が持つ動物性の衰退」ではない。


「動物性の衰退 → 人間性の堕落」という論理展開は、


戸塚氏の独自的な主張であり、


ここから「脳幹論」の提唱者はローレンツではない、と断言できる。



要するに、ノーベル賞を受賞した動物行動学者という権威に訴えて


自説の補強を図ったに過ぎない。よくあることだ。




< 4. 戸塚氏の理論は矛盾している >


「脳幹論」は、手法と理念の 2 つの点で矛盾している。


まず、戸塚氏は現代文明が原因で弱った脳幹を鍛える方法として、


ヨット・トレーニングを挙げているが、ヨット競技は極めて現代的なスポーツだ。



実際、現代の競技用ヨットは、様々な技術を用いて安全性を向上させたものであるし、


ウェットスーツ も保温性や撥水性を確保するため、化学的な人工素材で作られている。


つまり、戸塚氏が批判する「野生の自然と比べて肉体的な負荷が低い」ものである。



戸塚氏の主張する文脈で「人間の動物性」を回復させるのであれば、


例えば「野獣と素手で格闘する(※古代スパルタ で実際に行われた訓練)」とか、


せめて「全裸で太平洋横断」いった手法が妥当だと考えられるが、


なぜ比較的安全なヨット競技というスポーツを、戸塚氏は選択するのだろうか。



第一、ヨットの操縦には高度な人間的知性、


すなわち大脳皮質を活用しなければ不可能(※猿にヨットが乗れるか?)であり、


慣れないうちは本能的な刺激(=恐怖)を与えられるとしても、


熟達すれば大脳皮質を盛んに刺激する行為となってしまう。


すなわち、理論と手法の実態が乖離しており、まったく矛盾している。



また、哲学者スローターダイク によれば、


「あらゆる人文的知識は、人間の持つ獣性を飼い慣らすことを目的としている」という。


ここでスローターダイクの見解が正しいとすれば、


戸塚氏は「獣性(=動物性)」の復権を望みながら、


自らの理論によって「飼い慣らし」を画策する、という理念的な自己矛盾に陥っている。



そもそも、「教育」とは人間の動物性を飼い慣らすこと に他ならず、


教育を掲げながら「動物性」を復活させるという所業は、矛盾以外の何物でもない。




< 5. 脳幹論は、戸塚氏の自己弁護でしかない >


ところで、戸塚氏が「脳幹論」を完成した時期 をご存知だろうか。



「脳幹論」は、戸塚氏がヨット教室にて生徒を過失死させた罪で


拘留されている最中に生み出されたのである。



つまり、戸塚氏は「脳幹論」が先にあってヨット教室を立ち上げたのではなく、


生徒を過失致死させてしまったことを受け、


自己流の教育手法を正当化する理論として「脳幹論」を作り上げたのだ。



すなわち、生徒の死を「理論の実践中に起きた不幸な悲劇」


と正当化するための幼稚な自己弁護でしかない。



そう考えれば、理論と矛盾したヨット競技が推奨されているのも、むべなるかな。


そもそも、「ヨット競技の指導」という個人事業を推奨・宣伝するために


作り出された宣伝文句の一種に過ぎないのだ。



結局、戸塚宏という人物は、人格矯正の第一人者というより、


卑劣で厚顔無恥極まりない哀れな個人事業主なのだ。


まさに戸塚氏こそ「脳幹」を鍛えるに相応しい人格障害者 ではないだろうか。

日本に本社を置く大手自動車企業、トコタが原子力を動力源とする自動車を発表した。


新車発表会には多数の記者が集まり、その中で一人のジャーナリストが社長に質問した。



「仕様を見てみると、ブレーキペダルが付いていないようですが、何故でしょうか?」



社長は一瞬逡巡した表情を見せた後、落ち着きを払った声で答える。



「コストが掛かり過ぎるからです」



その答えに納得できないジャーナリストは、更に食い下がった。



「しかし、それでは安全性に問題があるのでは?」



社長は沈黙したまま動かない。にわかに周囲が騒然とし始める。


突然、社長の隣に座っていた副社長が代わりに答えた。



「わが社の想定の範囲では、問題がないことが分かっています」



副社長は手元の資料に目を落として続けた。



「また、車体はどんな衝突にも耐えられるように設計されていますので…」



その発言を遮るようにして、ジャーナリストは怒鳴り声を上げる。



「そういう問題じゃない! ブレーキがない車なんて危険すぎるだろう!」



険悪な空気を感じ取ったのか、司会進行係が慌てて飛び出してきた。



「えーと、これで今日の発表会を終えさせて頂きます」



役員一同が一斉に起立し、そそくさと会見場を後にする。


張り詰めていた会場の空気がゆっくりと弛緩していった。



先程発言したジャーナリストに一人の記者が近付いてきた。



「やあ、君は若いな。安全性が云々とか、青臭いことを言うんだなあ」


「何をバカな。ブレーキがない自動車なんて論外だ」



記者は首を横に振り、苦笑しながら答える。



「日本は資源がない国だから、原子力は必要悪なのさ」


「だからって、ブレーキがないなんて許されるのか」


「社長さんも言ってたけど、コストが掛かるんだよ。トコタは営利企業なんだから…」


「万が一、事故を起こしたら大変なことが起きるぞ」


「気を付けて運転すれば大丈夫だよ。車体も頑丈に出来てる」


「そんなこと信用できるか」


「君は心配性だな。じゃあ、太陽光で走る車でも作ったどうだ?」


「どうしてエンジンの燃費効率を上げるという発想に行き着かないんだ?」


「温暖化の原因になる二酸化炭素を増やしたくないだろ」


「放射能汚染が起きたら、温暖化どころの騒ぎじゃないぞ…」



しつこく食い下がるジャーナリストに痺れを切らしたのか、記者は呆れ顔で答える。



「とにかく、事故を起こさなければ安全なんだよ」


「本末転倒だ」


「いいか、大人になれ。反核なんてサヨクのやることだ」



記者はそう吐き捨てるように言うと、早足でジャーナリストのもとを去っていった。


その後姿を眺めながら、ジャーナリストは独り呟く。


「車の運転には、くれぐれも気を付けてくれよ…」


世界一の大都市と言えば、日本の首都、東京都 において他はない。


すなわち、東京都民とは世界一の都会人であり、


世界で最も洗練された都市型思考の持ち主でもある。



そんな世界が憧れる都会人、東京都民が愛して已まない存在こそ


現職の東京都知事である。えっと、名前は忘れた。


確か石神国子 さんの両親が所属している宗教組織 と反目し合っていた気がする。


えーと、とにかく第17代東京都知事 だ。



そんな世界一の大都市を総べる「Mr.クール・ジャパン」とでも呼ぶべき偉大な首長は、


脳幹論 」と呼ばれる一風変わった教育論を熱烈に支持していることで知られている。



その理論の正しさを私のような愚昧な人間が判断できるはずもないが、


世界中から尊敬を受ける東京都民に熱烈に支持されている知事の見解であり、


また提唱者がノーベル医学生理学賞を受賞した動物行動学者だそうなので、


恐らく「脳幹論」は正しいのだろう。いや、正しいに違いない。


(※ちなみに、その動物行動学者 は元ナチ党員 ですが、気にしないこと



さて、「脳幹論」では、脳幹を鍛えることで、情緒が飛躍的に安定するようになるという。


実際、数限りない情緒不安定児を治療してきた実績があるそうなので、


その効果は間違いないものなのだろう。



ところで、都民に敬愛される東京都知事の近況を思い出して頂きたい。



・東日本大震災において被災地を罵倒するような失言をする


・消防隊員を激励する会合の中で、感情が昂ぶって涙を流す


・「なでしこJAPAN 」の優勝を労う接見の途中、突如として怒り出す



私は精神医学の専門家ではないので断言は出来ないが、


この様子は素人目にも「情緒不安定」とは言えないだろうか。



そう言われてみると、この東京都知事は以前にも


フランス語は数が勘定できない言語であるとか文学的な発言をしたり、


マンガの登場人物にも人権があるとか精神分裂的な発言をしたり、


身内に対して「余人を以って代え難い」などと間違った日本語表現を用いたり、


都営銀行を作ってヤクザに融資しまくったあげく赤字を垂れ流したりと、


一般的な市民感覚としては、情緒障害 と言っても


差し支えないであろう行動を繰り返しているように見える。


ご高齢ということもあり、脳幹に機能障害が生じているのだろうか。



そもそも、既に青年期には、


未成年に対する性暴行を描いた小説 を公表したり、


非実在青少年同士の淫らな性交や殺人を描いた小説 を発表したり、


男根を障子に突き立てるポルノ小説 で時代の寵児と持て囃されたりと、


かなり深刻な情緒障害を患っていた可能性も否定できない。




…といった分析を終えたところで、考えてみて欲しいのですが、


ここで「脳幹論」を間違いなく正しい教育理論だと仮定して考えると、



都知事こそ脳幹を鍛えるべき



という意外な結論が導き出せるのではないかと思う。

正直なところ、東京電力・福島第一原発の事故を受けて


「原発反対!」「原発は危険だ!」などと主張する連中には、


ほとほど呆れ果ててしまう (゚⊿゚`)ヤレ2


あまりにも重大な事実誤認をしており、まったく不見識極まりない。



原発というのは、どう考えても安全な発電技術だ。


ただし、それにはちょっとした前提条件があるに過ぎない。



1. 稼動中、いかなる人為的ミスも起こさないこと


2. 完全な耐震設計・津波対策を施すこと


3. 使用済み核燃料を安全に処理する方法を確立しておくこと



これらの条件が守られている限り、原発は絶対的に安全だ。


「原発は原爆と同じ核だからダメ!」などと抜かす連中は、


無知蒙昧にも程があると言わざるを得ない。



ところで、人間は必ず間違いを犯す生き物である。


どんなに頭脳明晰な人物でも、人間である限りは全知全能ではない。


ちょっと難しく言うと、人間は可謬性を有する。


長期的な時間軸で考察すれば、人間の判断は「必謬的」とすら言える。



よって、どんなに努力や工夫を重ねても、必ず人為的ミスは起こる


統計的に言えば、ほぼ確実に起こると考えて構わない。


人為的ミスを犯さない現場が存在するとしたら、その作業員は全知全能の神である。



また、稼動中の原発においては、些細な人為的ミスが想定外の損害をもたらす可能性がある。


すなわち、長期的な視点に立ってみれば、原発は高い確率で想定外の損害をもたらす



更に、原発の設計段階においても、「安全基準」なるものは、


所詮、人間の恣意的な判断による創作物に過ぎないのであるから、


長期的な視点で考えた場合、必ず何らかの不具合が存在する



そもそも、万能に見える現代科学をもってしても、


ある地点で確実に大地震 or 大津波が発生しない、という予知は不可能だ。


確実な予知が出来ない以上、完全な安全基準など原理的に存在し得ない



ついでに言えば、使用済み核燃料を安全に処理する方法も全く確立されていない。


今のところは、地中深くに埋めてみるか、


採算&リスク度外視で再処理をしてみるくらいしか手立てはなく、


どちらも技術的な信頼性が皆無であり、全財産を三連単 の馬券につぎ込むようなものだ。



よって、上記の安全基準を満たした「安全な原発」などという代物は、


少なくとも現段階の人類文明には製造できるわけがない


平安貴族が自力で月面到達して、かぐや姫を拉致してくるようなものだ。



従って、「原発推進!」「原発は安全だ!」などという世迷言を喚く連中は、


知的水準において ホモ・サピエンスの領域に達していない、


と断定せざるを得ないだろう。