逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯 -17ページ目

逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

トイレの後に手を洗わない理由を尋ねてみると、


大抵の場合、「意味がない気がするから」と答える。



まず、実証的な見地からすれば、手洗いには効果がある。


わずか数秒間の流水による手洗いですら、雑菌を洗い流す効果がある。


つまり、「意味がない気がする」という見解は、端的に間違いだ。



結局、トイレの後に手を洗うことが面倒なので、


後付けで「意味がない」と理由を付けているに過ぎない。



実際、非-手洗い派に対して


「手洗いはこんなに効果があるんですよ」と説明したとしても、


また別な理由を持ち出して手洗いを拒否しようとするだろう。



恐らく本人もあまりに無意識に理由付けをしているため、


自分が手洗いを忌避している、という自覚もない。



素直に「洗いたくないから洗わない」と認めれば気が楽ではないかと思うのだが、


どうしてもそれを認めるのことが出来ない。


ある意味で、心の弱さを露呈しているのだろう。



この例に見られるように、人間は自分の欲求を素直に認めることが出来ず、


それがあたかも当然の欲求であるかのように合理化(=理由を後付け)する傾向がある。



この点に関する初期仏教の見解としては、「心は物事が永続することを求める」からだという。


自分の欲求が永続して満たされるため、その欲求が生じる理由を後付けするわけだ。



つまり、脳(あるいは心)による自動操縦に無自覚であると、


己の身を滅ぼしかねない悪しき習慣をやめることが出来ない。



トイレ後の手洗い程度ならばともかく、それが暴飲暴食や犯罪行為であったとすれば、


自分が心の奴隷になっていないか、真剣に問い直すことが必要だろう。

中国が大嫌いな人がよく言う台詞に「中華思想が云々」というものがある。



中華思想 、すなわち漢民族を中心とする世界秩序がある、という考え方だ。


この思想があるために、中国人は何かと日本を非難したり、


反日活動を画策してきたりするという。



しかし、よく中国の歴史 を眺めてみよう。


4,000年の歴史の中で、本当に漢民族が政治の実権を握った王朝など


実は数えるほどしかない(※大抵は異民族の影響力が無視できなかった)。


実際、最後の王朝も異民族によるものだった。



つまり、中国という地域の歴史は、


基本的に 「漢民族 vs. 周辺異民族」 という戦いの遍歴である。


しかも、どちらかと言えば、漢民族は劣勢に立たされる時期が長かった。



だからこそ、漢民族は自分たちの優位性を周囲に誇る必要があったわけで、


それが結果として「中華思想」という観念となって成立した。



そして、その世界観は「中原 」を手にした異民族にとっても


なかなか都合が良いものだったため、歴代の王朝に受け継がれていくようになる。



ただし、そう考えてみれば「中華思想」なんてものは、


周辺異民族にそれなりに認めるところがあるからこそ、


「オレらが最強なんだよ?」とハッタリをかましているに過ぎない。


所詮、プロレスラーが「オレは強い!」とマイクパフォーマンスするようなものだ。



実際、「中華思想」なんてものを認めると、


「自分たちは周辺諸国に怯えてます」と公言しているようなものなので、


中国本土で「中華思想」という言葉が使われることは稀らしい。



結局のところ、「中華思想」という言葉から透けて見えてくるのは、


中国自身の不遜な態度ではない。



そもそも、日本は確固とした地域大国であった頃には、


「中華思想」を問題視するような発言は目立たなかったではないか。



つまり、「中華思想」を問題にする言説には、


中国の台頭に頭を悩ませる日本側の怯え、あるいは自信喪失が


華夷秩序という概念に逆投影されている、という背景があるのではないだろうか。

有益な情報かもしれないので、メモっておこう。



禅宗で行われる瞑想では、ゆっくりとした呼吸を心がけるように指導される。


また、ゆっくりとした呼吸は、血液中に含まれる二酸化炭素の濃度を上げる。



最近の医学研究(※要出典)によると、血液中の二酸化炭素濃度が上がることにより、


脳内でセロトニンが盛んに分泌されるという。



ちょっと怪しい情報なんで調べてみたら、


セロトニン性神経細胞と二酸化炭素の関連性を説く論文 (Nature 誌に掲載)は見付かった。



人口に膾炙しているように、セロトニンは精神安定に関わる脳内物質であるため、


ゆっくりとした呼吸で分泌量が増えることにより、心が穏やかになるという。



ということは、俗に言う「禅病 」というのは、セロトニン症候群 のことだったのか。


ホンマかいな (゚⊿゚`)

東北地方を回っていて実感することは、土地が有り余っているということだ。


また、人手も有り余り過ぎている。至るところに低賃金労働者が溢れている。



このように、東北地方が国内平均と比べて貧しい理由は色々と考えられるが、


理由の一つとして「円高 」が挙げられるだろう。



域内の経済成長というのは、大抵の場合、


第1次産業 (農林水産) → 第2次産業 (鉱工業) → 第3次産業 (小売サービス)


といった具合に進展していくのが一般的である。



だが、例として東北一の経済を誇る仙台経済圏 を眺めてみると、


他の都市圏と比べて第2次産業が経済全体に占める割合 が極端に小さい。


これは、「支店経済 」という仙台経済圏の特徴のみならず、


東海道 地域やアジア圏から離れているという地理的条件により、


戦後以降における工業化の波から置いていかれたことに由来している。



まず、高度成長期における工業地帯と言えば、やはり東海道ベルト地帯 である。


その後、東海道ベルト地帯は第3次産業を中心とする傾向が顕著となり、


また人件費の高騰などの問題から、企業は石炭産業が衰退した九州地方に進出した。


特に九州地方は、アジアやオセアニアに比較的近いという地理的条件もあり、


生産品の海外輸出に好都合であった。



時を同じくして、東北道を中心軸として北関東・福島南部(白河 - いわき 周辺)にまで


日本の大工業地帯は拡張されていった。



そして、ついに東北や北海道の中心地へ工業地帯が伸張しつつあった頃、


バブル景気が見事なまでに崩壊し、工業地帯の拡大圧力は減退していった。



しかし、2000年代前半に輸出産業が好調 の兆しを見せ始めたため、


少しずつではあったが、再び東北地方への企業立地が進みつつあった。


また、やや円安の傾向 もあったため、企業は工場の国内立地に意欲的でもあった。



しかし、その勢いもリーマン・ショック によって終焉を迎えることになる。


更に、ユーロの信用不安や米国経済の不安定さを嫌気した投資家たちが


円買いの動きを強め始めたことから、円高が恒常化し始めた。



恒常的な円高により、国内企業は海外進出する以外の選択肢を失った。


こうして、多くの土地と人手が有り余った東北・北海道が


無残にも放置される構図が出来上がったのである。




そこで、上に述べた問題を解決する手段として、あえて暴論を唱えてみたい。


それは、東北・北海道限定に流通する新たな通貨の発行


すなわち「北日本円(仮称)」の提案だ。



北日本円(仮称)は、「北日本中央銀行」(旧・日本銀行仙台支店 )より発行される通貨であり、


東北・北海道地域における経済力をより正確に反映するため、


一般的な日本円よりも確実に安くなるはずだ。


(※適当な概算だが、日本円に換算すると、対ドルレート 120 円前後ではないだろうか)



というより、東北・北海道の経済力からすれば、


最適通貨圏 を外れるとまでは言わないにしても、日本円は高過ぎる


だから、企業立地に適した広大な土地や比較的安価な労働力が無駄になり、


また若者が都心部へ流出することによって地域が荒廃し、


挙句の果てに限界集落 だらけになってしまうのだ。



もし日本円と比較して安価な「北日本円(仮称)」が発行されれば、


企業はリスクが高い海外よりも、同じ国内の東北・北海道に進出することを望むだろうし、


企業立地によって有閑地の多くが解消されれば、地域に雇用が生まれることは間違いない。


当然、若者には「地域に留まる」という選択肢が与えられ、


老人だらけだった寒村にも新生児の産声が盛んに聞こえ始めるわけだ。



しかし、「北日本円(仮称)」は米ドルに対して安いため、


輸入品が比較的割高になるという短所もある。



しかし、少なくとも食料品に限って言えば、東北・北海道は全国有数の生産地であり、


域内経済で十分やっていける。その上、生産品への需要が高まるため、


域内農業に対する間接的な支援効果も見込めるだろう。


ただし、海外旅行に関しては、ちょっと我慢してもらうしかないが 笑




しかし、いつまで「北日本円(仮称)」は発行され続けるべきだろうか。



かなり極端な形の道州制 が施行され、域内が半ば独立国家のようになった場合を例外とすれば、


将来的な出口戦略として「対ドル為替レートが日本円と同水準」になった頃を区切りとして


「北日本円(仮称)」を日本円と同等のものとみなし、通貨発行を終了すれば良いだろう。



ただし、個人的には、東北・北海道が「北日本連邦」となって独立する日を夢見ている


…なんてことを書くと警察庁に「分離独立派・反乱分子」扱いされるかもしれないので、


オフレコでお願いします。

理系な方々と話していて不思議に思うのは、科学技術に対する素朴な肯定感情だ。


また、マルクス主義者 と見紛うような「科学による社会発展論」を説く傾向がある。



更に言えば、科学技術の発展に対する無条件の信頼を基礎として、


科学の発展に寄与することが人類の目標であり、科学者以外の人々に対しても、


この価値観に賛同するよう無自覚な期待をしているように見える。



例えば、いい歳をした大人が「科学はロマン だ / 人類の夢だ」といった世迷言を


至って平然と、さも当然のように、ときに誇らしげに語ってみせたりする。



そして、その「ロマン」に傾注することが全人類の存在価値であり、


その価値に寄与出来る自分たちを聖職者か何かと誤解している。


まるで神への信仰を誇らしげに語る狂信者たちのようだ。



ちなみに言っておくと、ロマンとは「俗ラテン語 で書かれるような低俗な文学」


といった蔑称に由来する言葉 であることも良く覚えておくと良い。




まず、第一の問題として、科学の進歩が人類の生活向上には


必ずしも役に立っていない、という厳然たる事実がある。



生活における一つの問題を解消する技術が生まれたとしても、


今度はその技術によって新たな生活上の問題が生まれることが少なくない。



例えば、携帯電話によってコミュニケーション上の不都合が改善されたかもしれないが、


その普及によって新たなコミュニケーション上の障害が発生しつつある。



また、原爆原発 は言うに及ばず、一見無害に見える個人向けコンピュータ の普及も、


演算機能の向上によって莫大な数の雇用を奪い続けている


(※また、IT 産業が大した雇用を生み出していないという批判は、もはや常識の類だろう)



つまり、ある箇所の改善が別の箇所で不都合を生む、


という「イタチごっこ 」を繰り返しているに過ぎない。


しかも、その循環が繰り返される度に問題の難易度が漸増していく。


細菌や害虫に薬剤耐性 を与え続けた挙句、ついには防ぎようがなくなるようなものだ。



結局、科学技術ごときで解決できることなど高が知れている。


それにも関わらず、理系脳な人々は、


素朴に科学技術の発展がバラ色の未来を生む、と信じ切っている。


その有り様は、まるでマルクス主義的な唯物史観 を眺めているかのようだ。



例えば、完全にガンを克服する医学的手法が確立されたとしても、


地球上の資源は有限であるため、その手法の恩恵に与れる人々の数は限られている。


有り体に言えば、裕福な人々の命だけが助かるわけだ。



実際、現代の先進諸国を眺めてみても、富裕層の寿命が伸び続ける一方で、


貧困層の寿命はむしろ縮んでいる場合が多い 。しかし、まだ先進国は恵まれている。


「あなたの寄付で貧しい子どもたちにワクチンを」といった宣伝文句にも見られる通り、


最貧国に住む人々の寿命は縮みゆくばかり だ。



つまり、科学技術の発展は人類の向上に比例しないばかりか、


場合によっては逆相関することも少なくない。


たとえ技術の進展が人類の発展に寄与するとしても、その過程は非常に複雑であり、


単純な「唯物史観」では説明できないのだ。




しかし、最も問題なのは、その「唯物史観」ではない。


むしろ、そういった「信仰」を他者に平然と押し付けてくる点が最大の問題である。


謂わば、改宗の強要とでも言うべき暴挙であり、断じて許されない。



自分たちの研究がいかに「尊い」ものだとしても、


その効用を「ロマン」やら「夢」といった観念的な語彙でしか説明できないならば、


そんな研究に費やす国費など一銭もない



「科学真理教」を狂信する研究者たちには、


自分たちが信じる「神」の姿がハッキリと知覚されているのかもしれないが、


その妄想を無関係な一般大衆に押し付けられては困る。



そんなに研究費が欲しければ、具体的かつ共有可能な価値に基づく情報伝達、


言うなれば、信仰に酔っ払わない「素面」なコミュニケーションを心掛けるべきなのだ。




ただし、この日本という国に住む平均的な人々は、


科学真理教徒のハッタリを素朴に信じてしまうような文系脳であるため、


彼らが自らの信仰を見つめ直す機会は当分、訪れそうにもない。