逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯 -16ページ目

逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

シナ人やら、チョーセン人やらが何と言おうが関係ない。


しかし、どう考えても、政治家の靖国参拝はあり得ない。



少なくとも、東北出身の政治家が靖国参拝に肯定的であるとすれば、


その自分の生まれ育った地域の歴史に対する見識を疑う。



個人的に靖国の一番の問題は、戊辰戦争に関する「英霊」の取り扱いだ。


重要なのは、戊辰戦争の後始末なのである。



明治新政府は、仙台城が築かれた場所を占領し、


護国神社なる怪しげな宗教施設を建てることで仙台藩を極限まで辱めた。


そして、靖国神社である。



我々の故郷を長い間守り続けてきた祖先を


無慈悲なまでに虐殺し尽した暴虐の徒が「英霊」として祀られている。


同じ日本人を虐殺しまくった連中を「神」と崇めるような怪しげな宗教施設など、


この日本に存在してはならないし、ましてや東北出身の政治家が参拝すべきではない。

昨今、これだけ指導力とか、統治能力とか、人格・品格とか、結果責任とか、


色んな観点で首相を叩きまくっているわりに


神聖なる我らが皇国を絶望的な敗戦へと追いやった無能で厚顔無恥、


かつ無知蒙昧な指導者層が「英霊」として祀られる怪しげな宗教施設に


現代の政治家たちが「皆で渡れば怖くない」的にゾロゾロと押しかける。



そう、指導者というのは、統治能力や結果責任で評価されるものだ。


よって、自分の首と引き換えに、粘り腰で重要法案を押し通した総理大臣は、


皮肉なしに立派な宰相であり、賞賛に値するのである。



そして、ナガサキに原爆が落とされることを事前に分かっておきながら、


原爆開発に先を越されたことを認めたくない故に、その情報を無視して


惨劇の回避に失敗したという太平洋戦争末期の政権担当者たちは、


末代まで軽蔑されて然るべきなのである。



ところが、現実は逆だ。


賞賛されるべき首相が嘲笑され、軽蔑されるべき首相が崇拝される。


その矛盾を許容するためには、知性をかなぐり捨てる必要があろう。


ようするに、怪しい国民セシウムさん。

切れ長の涼やかな目をした女性と、


二重瞼がクッキリとした西洋人的な顔立ちの女性が会話していた。



「切れ長の目って憧れるわ。何か神秘的なオーラで女子力高いわよね」


「そう? でも、よく怒ってないのに 『怒ってる?』って聞かれるのよ」


「クールに見えるってことじゃない?」


「個人的には、アナタのようなクッキリとした二重に憧れるわ」


「そう?」


「やっぱり美人と言えば、二重瞼で目が大きいってのが定番でしょ」


「うーん、でも、よく真面目にやってるのに 『眠たいの?』って聞かれるわ」


「世の中、うまくいかないものね」

命題「日本経済は、原発なくして成り立たない」を真と仮定する。



ここで「定理:人間は可謬的であり、長期的に考えれば必謬的である」を採用すると、


原発は、長期的な視野で考えれば、必ず事故を起こす


 ∵ 原発の設計や製造、運営は、長期的には必謬的な人間が担う


すなわち、原発 = 原発事故 と言える。



 → 日本経済は、原発事故なくして成り立たない



ここで、「日本経済が成り立つ」を a, 「原発がある」を b と置くと


日本経済は、原発事故なくして成り立たない ~b → ~a ⇔ a → b


(∵対偶の真偽は、命題の真理値と一致する)



 → 日本経済を成り立たせるためには、原発事故が必要である



ところで、原発事故が起きると、日本の経済に大きな存在をもたらす。


すなわち、原発事故 = 日本経済に大損害をもたらす



 → 日本経済を成り立たせるためには、日本経済に大損害をもたらす必要がある


 → 日本経済が成り立たせると、日本経済に大損害がもたらされる



ところで、日本経済に大損害がもたらされると、日本経済が成り立たない。



 → 日本経済を成り立たせると、日本経済が成り立たない



これは明らかに矛盾する。よって、背理法より命題は偽であることが証明された。

物理学の諸法則は、数学的モデルによって表現される。


では、どうして物理に数学を適用するのがが可能なのだろうか。



極めて基礎的な問題にも関わらず、意外にも説得力がある答えは用意されていない。


恐らく、そう簡単な理由ではないのだろう。



将棋で喩えれば、あと一手で相手を詰めることが出来そうなのに、


何としても詰むことが出来ないような局面、といったところだ。



また、その理由を解き明かした人物は、科学哲学史上の「天才」と評されることだろう。



まあ、それはともかくとして、直感的に思い付く仮説としては、


数学が「人間の持つ先験的な認識能力の一端を表現可能」だから、


なんてことも言えるだろう。



ついつい、私たちは「数学は世界の真理を表現できる」のではないか、


と考えたくなってしまうが、残念ながら、それは正しくない可能性が非常に高い。



実際、あらゆる物理現象を直接・間接的に観察するのは、


所詮、不完全な認識能力しか持たない人間である。


よって、人間の世界に対する認知の在り方が「真理」である保証など、どこにもない。


ヒューム的な懐疑主義 の立場からすれば、


昨日は成立していた物理法則が明日も必ず成立する、という保証もまた存在しない。


(※例えば、ディラックの大数仮説 を考えると分かりやすい)



少なくとも、それは「人間原理 」という都合の良い枠組みの中でのみ


承認され得る「控えめな真理」に過ぎないだろうし、


それを「絶対的な真理」などと吹聴するのは、誇大妄想の類だ。



反実在論 の立場からすれば、数学における概念は、


「人間が生み出した空想の産物」に過ぎないわけだから、当然ながら、


(恐らく同じく脳機能から生み出される)先験的認知能力と相性が良いはずだ。



よって、数学を用いた表現手段は、人間が認識する世界の記述に適している。


まあ、下衆の勘繰りとしては、そんなところで十分だろう。