理系な方々と話していて不思議に思うのは、科学技術に対する素朴な肯定感情だ。
また、マルクス主義者 と見紛うような「科学による社会発展論」を説く傾向がある。
更に言えば、科学技術の発展に対する無条件の信頼を基礎として、
科学の発展に寄与することが人類の目標であり、科学者以外の人々に対しても、
この価値観に賛同するよう無自覚な期待をしているように見える。
例えば、いい歳をした大人が「科学はロマン だ / 人類の夢だ」といった世迷言を
至って平然と、さも当然のように、ときに誇らしげに語ってみせたりする。
そして、その「ロマン」に傾注することが全人類の存在価値であり、
その価値に寄与出来る自分たちを聖職者か何かと誤解している。
まるで神への信仰を誇らしげに語る狂信者たちのようだ。
ちなみに言っておくと、ロマンとは「俗ラテン語 で書かれるような低俗な文学」
といった蔑称に由来する言葉 であることも良く覚えておくと良い。
まず、第一の問題として、科学の進歩が人類の生活向上には
必ずしも役に立っていない、という厳然たる事実がある。
生活における一つの問題を解消する技術が生まれたとしても、
今度はその技術によって新たな生活上の問題が生まれることが少なくない。
例えば、携帯電話によってコミュニケーション上の不都合が改善されたかもしれないが、
その普及によって新たなコミュニケーション上の障害が発生しつつある。
また、原爆 や原発 は言うに及ばず、一見無害に見える個人向けコンピュータ の普及も、
演算機能の向上によって莫大な数の雇用を奪い続けている 。
(※また、IT 産業が大した雇用を生み出していないという批判は、もはや常識の類だろう)
つまり、ある箇所の改善が別の箇所で不都合を生む、
という「イタチごっこ 」を繰り返しているに過ぎない。
しかも、その循環が繰り返される度に問題の難易度が漸増していく。
細菌や害虫に薬剤耐性 を与え続けた挙句、ついには防ぎようがなくなるようなものだ。
結局、科学技術ごときで解決できることなど高が知れている。
それにも関わらず、理系脳な人々は、
素朴に科学技術の発展がバラ色の未来を生む、と信じ切っている。
その有り様は、まるでマルクス主義的な唯物史観 を眺めているかのようだ。
例えば、完全にガンを克服する医学的手法が確立されたとしても、
地球上の資源は有限であるため、その手法の恩恵に与れる人々の数は限られている。
有り体に言えば、裕福な人々の命だけが助かるわけだ。
実際、現代の先進諸国を眺めてみても、富裕層の寿命が伸び続ける一方で、
貧困層の寿命はむしろ縮んでいる場合が多い 。しかし、まだ先進国は恵まれている。
「あなたの寄付で貧しい子どもたちにワクチンを」といった宣伝文句にも見られる通り、
最貧国に住む人々の寿命は縮みゆくばかり だ。
つまり、科学技術の発展は人類の向上に比例しないばかりか、
場合によっては逆相関することも少なくない。
たとえ技術の進展が人類の発展に寄与するとしても、その過程は非常に複雑であり、
単純な「唯物史観」では説明できないのだ。
しかし、最も問題なのは、その「唯物史観」ではない。
むしろ、そういった「信仰」を他者に平然と押し付けてくる点が最大の問題である。
謂わば、改宗の強要とでも言うべき暴挙であり、断じて許されない。
自分たちの研究がいかに「尊い」ものだとしても、
その効用を「ロマン」やら「夢」といった観念的な語彙でしか説明できないならば、
そんな研究に費やす国費など一銭もない。
「科学真理教」を狂信する研究者たちには、
自分たちが信じる「神」の姿がハッキリと知覚されているのかもしれないが、
その妄想を無関係な一般大衆に押し付けられては困る。
そんなに研究費が欲しければ、具体的かつ共有可能な価値に基づく情報伝達、
言うなれば、信仰に酔っ払わない「素面」なコミュニケーションを心掛けるべきなのだ。
ただし、この日本という国に住む平均的な人々は、
科学真理教徒のハッタリを素朴に信じてしまうような文系脳であるため、
彼らが自らの信仰を見つめ直す機会は当分、訪れそうにもない。