脳幹論への具体的な批判 | 逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

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A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

意外にも「脳幹論 」を適切に批判している言説が少ないことに気付いたので、


出来るだけ分かり易く理論の間違いを指摘してみるテスト。




「脳幹論」とは、脳幹を鍛えることによって


青少年の情緒障害 を矯正することが出来る、という教育理論。



なお、この理論を提唱する戸塚宏 氏によれば、


現代社会は人間に与える肉体的・精神的な負荷が低いため、


動物的本能を司る脳幹が衰え、結果として情緒障害が発生するという。



この理論には、以下の批判が考えられる。


1. 脳幹は情動(=感情・情緒)の制御と関係ない


2. 情動の制御を司るのは、主に大脳皮質である


3. ローレンツ博士が提唱したわけではなく、戸塚氏の思い付きである。


4. 戸塚氏の理論は、手法的・理念的に矛盾している。


5. 脳幹論は、戸塚氏の自己弁護でしかない。




< 1. 脳幹は情動の制御と関係ない >


脳幹 」とは脳の一部だが、「間脳 (の一部である視床下部 )」を除くと、


人間の情動には全く関わっていない


脳幹の主な役割は、呼吸や発汗、脈拍といった生命維持に関わる機能である。


(※狭義の「脳幹」は「間脳」を除くので、情動とは全く無関係である)



脳幹の一部である「視床下部」は、本能的感情を司る部位だが、


感情の制御自体は別の部位(※大脳皮質)によって行われる。



ちなみに、同じく間脳に含まれる「視床 」は、


大雑把に言えば、五感 のうち嗅覚以外を大脳に伝える部位であり、


仮に鍛えることが出来たとしても、身体機能が強化される程度だろう。




< 2. 情動の制御を司るのは、主に大脳皮質である >


視床下部を完全に除去すると、本能的な欲求がなくなる。


ただし、これは「意欲を完全に失う」ということと等しい。



つまり、河の流れにたとえると、視床下部は水源 である。


河の氾濫(=情緒障害)を抑えるためには、水源を枯渇させるのではなく、


下流に堤防を築くべきである。その堤防の役割を果たすのが、「大脳皮質」だ。



例えば、誰でも授業や仕事の最中に空腹を覚えることはあるものだが、


教室や仕事を抜け出して勝手に食事を採ったりしないのは、


視床下部が生み出す欲求を大脳が適切に判断して、行動を強力に制御しているからだ。


(※下等生物や昆虫などには不可能なことである)



つまり、情緒障害に伴う問題行動を矯正しようとするならば、


当然ながら大脳皮質に注目する必要がある。




< 3. ローレンツ博士が提唱したわけではなく、戸塚氏の思い付きである >


「脳幹論」の提唱者は、コンラート・ローレンツ (※ノーベル賞を獲得した動物行動学者)


ということになっているようだが、これは端的に事実誤認である。


ローレンツ自身は、「脳幹を鍛えることが情動の抑制に繋がる」などと主張していない。



ローレンツによれば、人間性は環境によってのみ醸成されるという。


これは「氏か育ちか 」論争における「経験論 」という立場である。



そして、現代文明が人間性を破壊するといった鋭い批判を投げかけ、


ルソー のように「自然に還れ!」と主張した。



戸塚氏は、このローレンツの現代文明批判を読んで自説に結び付けたらしい


実際、「野生の自然と比べて肉体的・精神的な負荷が低い現代文明が


人間の動物性を司る脳幹を衰えさせた」と主張している



ところが、ローレンツが主張したのは「人間性の堕落」であり、


戸塚氏の言うように「人間が持つ動物性の衰退」ではない。


「動物性の衰退 → 人間性の堕落」という論理展開は、


戸塚氏の独自的な主張であり、


ここから「脳幹論」の提唱者はローレンツではない、と断言できる。



要するに、ノーベル賞を受賞した動物行動学者という権威に訴えて


自説の補強を図ったに過ぎない。よくあることだ。




< 4. 戸塚氏の理論は矛盾している >


「脳幹論」は、手法と理念の 2 つの点で矛盾している。


まず、戸塚氏は現代文明が原因で弱った脳幹を鍛える方法として、


ヨット・トレーニングを挙げているが、ヨット競技は極めて現代的なスポーツだ。



実際、現代の競技用ヨットは、様々な技術を用いて安全性を向上させたものであるし、


ウェットスーツ も保温性や撥水性を確保するため、化学的な人工素材で作られている。


つまり、戸塚氏が批判する「野生の自然と比べて肉体的な負荷が低い」ものである。



戸塚氏の主張する文脈で「人間の動物性」を回復させるのであれば、


例えば「野獣と素手で格闘する(※古代スパルタ で実際に行われた訓練)」とか、


せめて「全裸で太平洋横断」いった手法が妥当だと考えられるが、


なぜ比較的安全なヨット競技というスポーツを、戸塚氏は選択するのだろうか。



第一、ヨットの操縦には高度な人間的知性、


すなわち大脳皮質を活用しなければ不可能(※猿にヨットが乗れるか?)であり、


慣れないうちは本能的な刺激(=恐怖)を与えられるとしても、


熟達すれば大脳皮質を盛んに刺激する行為となってしまう。


すなわち、理論と手法の実態が乖離しており、まったく矛盾している。



また、哲学者スローターダイク によれば、


「あらゆる人文的知識は、人間の持つ獣性を飼い慣らすことを目的としている」という。


ここでスローターダイクの見解が正しいとすれば、


戸塚氏は「獣性(=動物性)」の復権を望みながら、


自らの理論によって「飼い慣らし」を画策する、という理念的な自己矛盾に陥っている。



そもそも、「教育」とは人間の動物性を飼い慣らすこと に他ならず、


教育を掲げながら「動物性」を復活させるという所業は、矛盾以外の何物でもない。




< 5. 脳幹論は、戸塚氏の自己弁護でしかない >


ところで、戸塚氏が「脳幹論」を完成した時期 をご存知だろうか。



「脳幹論」は、戸塚氏がヨット教室にて生徒を過失死させた罪で


拘留されている最中に生み出されたのである。



つまり、戸塚氏は「脳幹論」が先にあってヨット教室を立ち上げたのではなく、


生徒を過失致死させてしまったことを受け、


自己流の教育手法を正当化する理論として「脳幹論」を作り上げたのだ。



すなわち、生徒の死を「理論の実践中に起きた不幸な悲劇」


と正当化するための幼稚な自己弁護でしかない。



そう考えれば、理論と矛盾したヨット競技が推奨されているのも、むべなるかな。


そもそも、「ヨット競技の指導」という個人事業を推奨・宣伝するために


作り出された宣伝文句の一種に過ぎないのだ。



結局、戸塚宏という人物は、人格矯正の第一人者というより、


卑劣で厚顔無恥極まりない哀れな個人事業主なのだ。


まさに戸塚氏こそ「脳幹」を鍛えるに相応しい人格障害者 ではないだろうか。