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今までも同じ目的で何回も国会図書館に行きましたが、なかなか立派で特に各所に置かれているソファはすわり心地が良く調べ物に疲れた時などに居眠りするのには最適です。また、食堂もなかなか美味で安く国会図書館に行く楽しみのひとつです。

ところで、肝心の漫画雑誌ですが、バックナンバーの多くは欠けておりすべて保存されているわけではありません。少年画報などは全部で5冊くらいがさびしく置かれているだけです。漫画少年も少しだけしかありません。

また、ひどいときには、いつの時代かわかりませんが心ない人によって切り取られているものもあります。たとえば、鉄腕アトムの連載開始時や冒険王版どろろの最初などはありません。また多くの綴じ込み付録も切り取られており、魔神ガロンの立体カレンダーなどもありません。これにはがっかりしましたね。。

また、保管の対象は、本誌だけなので付録についている漫画の小冊子は保存されていません。当時は本誌に数頁だけ導入部が掲載されており、「この続きは付録を読んでね」というものが多いので結局作品を通して読めないのです。

まして、付録の組み立て付録などはもちろんありません。ただし、どのようなものだったかは、「ふろくの頁」に組み立て方や遊び方が書いてあるので想像することはできます。また、次号予告の頁にはカラー図解などで詳しく紹介されていますので貴重な資料となります。今回は手塚作品関係を中心に関係ある頁を複写依頼してできるだけ情報を集めることにしました。

ただし、一度に閲覧できる冊数が決まっていますし、出てくるまで結構時間がかかり、また複写にも時間がかかるので、朝から出かけても資料請求できる回数がせいぜい3回くらいです。これからまだ何回もいくことになると思います。でも趣味ですから楽しいものです。 

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先日ひさしぶりに国会図書館に行ってきました。目的は、昔の雑誌の付録を調べることです。

昭和30年代から昭和40年代のはじめ頃は、少年、冒険王、少年画報、少年ブックなど漫画月刊誌にたくさん付録がついていました。付録の漫画小冊子と紙製の組み立て付録などが本にはさまれ輪ゴムでまとめられた状態で本屋さんの店頭に並んでいたものです。分厚くてとても豪華な感じでした。

最近私は、この時代の組み立て付録の収集に注力しています。当時少年たちの間で人気があった、飛行機、ピストル、戦車などの紙製模型が多いのですが、特に昭和30年代後半からは雑誌で人気がある作品に関する付録がつき始めました。手塚作品は、どの雑誌でも目玉作品だったのでいろいろな付録が製作されました。下に主なものを列挙してみます。

「少年」:鉄腕アトム。「少年画報告」:マグマ大使。「少年ブック」:ビッグX、バンパイヤ。「冒険王」:どろろ。

なかなかお目にかかれないアイテムも多く手塚グッズの収集では鬼門となっています。
組み立てないで持ってる子供なんていないですよね。また、すぐ壊れちゃうので、作ってしばらくしてから捨てますよね。。。

せめて、どんなものがあったかを調べたくて国会図書館に出向いたんです。

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岩波書店から出た掲記資料に、「赤本漫画と手塚治虫」というコーナーがあり日本がGHQに統治されていた時期に手塚先生が雑誌に描かれた貴重な作品が掲載されています。特に、幻と言われていた「ハンスと金の髪の毛」(漫画と読物 昭和24年新年号付録)が全頁カラーで掲載されているのには驚きと感動でした。

1945~1949にかけてGHQはすべての雑誌を検閲しており、その提出資料はアメリカのメリーランド大学にあるプランゲ文庫にすべて保管されています。国会図書館にもない貴重な資料が多いのですが、漫画雑誌の本誌だけでなく付録まで残っているのです。(ちなみに国会図書館には、雑誌の付録は保管されていません。)たぶん、手塚先生以外の作品もたくさんあると思います。いつか、調べに行きたいと思っています。

それにしても日本にこのような資料が残されていないのは残念です。敗戦という痛ましい事がきっかけではありますが、GHQの時代はこのようにかろうじて資料が残りました。現在これ以外の時期の資料は散逸しています。公費を使ってでも少しくらい集めておけないものかとも思います。今ならそれほど費用はかからないはずです。箱物作るより安くあがると思います。まだ当時の証人がご存命である今が最後のチャンスなのですが。。
7/18から開催されている「サンデー・マガジンのDNA」(川崎市民ミュージアム)のトークイベント「小林まこと×斎藤宣彦」に行ってきました。

小林まこと氏は、1・2の三四郎、What’s Michael、柔道部物語などのヒット作を世に出し、私も大好きな作家です。昨年出版された、青春少年マガジンでは、新人時代の様子が紹介されておりとても感動しました。

昭和30年代生まれのマンガ家としては、今や大御所の一人だと思いますが、トークショーなどに参加されるのはあまりなかったと思います。たまたま、家が近かったこともあり、「これはいかなけりゃ!」と思い家族サービスをさぼって会場に行きました。小林先生がマンガ家になるまでのエピソードやマンガ界のことなど、大変興味深い話が山盛りで、時間があっというまに過ぎ、本当に聴きに行って良かったと思います。

私の独断を交えて一言で小林先生の雰囲気を表すと、「普通の体育会系」という感じです。体育会系というと、ちょっとこわい感じがしますが、それは本当に一番を競おうとするようなビシッとした体育会のイメージだと思います。私が「普通の」とつけたのは、そこいらの普通の部活などでそれなりにやっている体育部のことです。一番を競わないような部でも、先輩後輩の上下はあり、日ごろの練習でも一応厳しいところはあるものです。私も小林先生と同様に柔道部でしたが、体育部の経験をしたかしないかは、その後の人生にだいぶ大きな影響を残したと思います。

小林先生は「理不尽」と表現されていましたが、先輩や監督がめちゃくちゃなことを言っても、「しょうがない。やってみるか。」というのが体育会系の感覚だと思います。編集者に無理なこと言われても、「しゃーねーな。やってみるか。」とやってきたというのが、小林先生の仕事だったようです。ただし、やりはじめるとヒット作を出しているところが、普通の人と違うところで。これは、やはり天性でしょう。デビューから大手のマンガ週刊誌で連載というのも幸運だったと思います。体育会系でマンガ家としても才能があったというのが、小林先生だったのでしょうね。

マンガ界のこともいろいろお話されていました。今のマンガはあまり読まれていないとのことでした。「昭和10年代生まれのマンガ家たちががんばりすぎたせいか、昭和20年代生まれのマンガ家はなかなか育ちにくかった。」
「昔のマンガ家はかっこいい、あこがれの存在。」
「次の昭和30年代は、隔世遺伝のように新しいマンガ家がたくさん出てきたが、プロダクション制、アシスタント分業などマンガの製作プロセスはあまり踏襲しないで、結構自分で大部分を書き込む人が多い。」
など面白い話をたくさんされました。
ちょっと、心配になったのは、現在の若いマンガ家のレベルはどうなのかな?ということです。実は私自身も今のマンガをあまり読んでいないのですが、アニメやゲームなどもたくさんあり、昔ほどみんなマンガを読んでいない気もします。しょーがないですが。。。
マンガ評論は読めなくなったが、このところベテランマンガ家や編集者が書いたマンガについての回顧録みたいなものばかり読んでいる。

ほぼ同時代にリアルタイムでその時々に発表されたマンガを読んできた読者として、その作品群がどのような経緯で世に出てきたかについて興味があるからだろう。私の父達の世代が文学史を読むのに似た感覚だろうか?

松本正彦氏は、さいとうたかお、辰巳ヨシヒロ、佐藤まさあきなどとともに貸本から劇画を立ち上げた立役者の一人として有名だが、私は貸本ブームの時はまだ幼かったため知らなかった。後の商業誌でもあまり目立たなかった気がする。実は松本氏の作品をじっくりと読んだのは、この「劇画バカたち!!」』(青林工藝舎)がはじめてだと思う。

物語は、さいとうたかお、辰巳マサヒロ、松本正彦の三人トリオが、自分たちの作画スタイルに悩み、東京でのメジャーデビューにあこがれる姿を描いたもので、短編集「影」(日の丸文庫)などの出版をとおして当時の大阪の貸本出版業界の様子も描かれている。描かれている人たちは、総じてみな裕福そうでなく、むしろ貧乏そうである。たいへんな環境の中、先が暗い貸本マンガを描きながらもがいているようでもある。なんとなく暗い。まあ、マンガ家として売れるまでは、多かれ少なかれみな似たような生き方をしているのかもしれないが。。。

ところで、最近手塚賞を受賞した辰巳ヨシヒロ氏の「劇画漂流」をまんだらけZENBUで読んだ時もまったく同じような感じだった。まるで同じ作者が描いたようにも感じる。この感覚は何だろう?と思う。

結局、この作品に出てくるマンガ家達で、ちょっとだけ出てくる川崎のぼる、楳図かずおなどを除くと劇画家として一般の読者にも認知されたのは、さいとうたかお氏くらいだろう。時々劇画の大家と言われる、白戸三平、水木しげる、などは、当時、自分が「劇画」を描いているという意識はなかったのではないだろうか。たぶんもマンガを描いていると思っていたと思う。

それでは、辰巳や松本が作った劇画というものは一体何だったのだろうか?興味深いのは、巻末に掲載された、さいとうたかお氏の以下の話である。「本当は手塚治虫先生が「ストーリーマンガ」に代わる新しい言葉を考えてくれれば我々はスムーズに入っていけたんですよ。 -中略-  本来「劇画」は「マンガ」に対立したものではなくて、手塚先生の成し遂げてきたものを受け継いで、発展させるものだったわけですから。」劇画は、今も進化・曜変を続けているマンガの一時代の形態を表現した言葉というわけだ。

しかし、当時、松本、辰巳らにとっては、自分達の感性表現の産物を劇画として発表したわけで、当時の劇画は、もっと個人的趣向が色濃いローカルなものだったと思う。「劇画バカたち!!」と「劇画漂流」の雰囲気が似ているように思えたのは、これが彼らの「劇画」だからかもしれない。

今では、彼らの劇画もマンガの奔流にのみ込まれ、そのDNAはしっかり受け継がれていると思う。