マンガ評論は読めなくなったが、このところベテランマンガ家や編集者が書いたマンガについての回顧録みたいなものばかり読んでいる。
ほぼ同時代にリアルタイムでその時々に発表されたマンガを読んできた読者として、その作品群がどのような経緯で世に出てきたかについて興味があるからだろう。私の父達の世代が文学史を読むのに似た感覚だろうか?
松本正彦氏は、さいとうたかお、辰巳ヨシヒロ、佐藤まさあきなどとともに貸本から劇画を立ち上げた立役者の一人として有名だが、私は貸本ブームの時はまだ幼かったため知らなかった。後の商業誌でもあまり目立たなかった気がする。実は松本氏の作品をじっくりと読んだのは、この「劇画バカたち!!」』(青林工藝舎)がはじめてだと思う。
物語は、さいとうたかお、辰巳マサヒロ、松本正彦の三人トリオが、自分たちの作画スタイルに悩み、東京でのメジャーデビューにあこがれる姿を描いたもので、短編集「影」(日の丸文庫)などの出版をとおして当時の大阪の貸本出版業界の様子も描かれている。描かれている人たちは、総じてみな裕福そうでなく、むしろ貧乏そうである。たいへんな環境の中、先が暗い貸本マンガを描きながらもがいているようでもある。なんとなく暗い。まあ、マンガ家として売れるまでは、多かれ少なかれみな似たような生き方をしているのかもしれないが。。。
ところで、最近手塚賞を受賞した辰巳ヨシヒロ氏の「劇画漂流」をまんだらけZENBUで読んだ時もまったく同じような感じだった。まるで同じ作者が描いたようにも感じる。この感覚は何だろう?と思う。
結局、この作品に出てくるマンガ家達で、ちょっとだけ出てくる川崎のぼる、楳図かずおなどを除くと劇画家として一般の読者にも認知されたのは、さいとうたかお氏くらいだろう。時々劇画の大家と言われる、白戸三平、水木しげる、などは、当時、自分が「劇画」を描いているという意識はなかったのではないだろうか。たぶんもマンガを描いていると思っていたと思う。
それでは、辰巳や松本が作った劇画というものは一体何だったのだろうか?興味深いのは、巻末に掲載された、さいとうたかお氏の以下の話である。「本当は手塚治虫先生が「ストーリーマンガ」に代わる新しい言葉を考えてくれれば我々はスムーズに入っていけたんですよ。 -中略- 本来「劇画」は「マンガ」に対立したものではなくて、手塚先生の成し遂げてきたものを受け継いで、発展させるものだったわけですから。」劇画は、今も進化・曜変を続けているマンガの一時代の形態を表現した言葉というわけだ。
しかし、当時、松本、辰巳らにとっては、自分達の感性表現の産物を劇画として発表したわけで、当時の劇画は、もっと個人的趣向が色濃いローカルなものだったと思う。「劇画バカたち!!」と「劇画漂流」の雰囲気が似ているように思えたのは、これが彼らの「劇画」だからかもしれない。
今では、彼らの劇画もマンガの奔流にのみ込まれ、そのDNAはしっかり受け継がれていると思う。
ほぼ同時代にリアルタイムでその時々に発表されたマンガを読んできた読者として、その作品群がどのような経緯で世に出てきたかについて興味があるからだろう。私の父達の世代が文学史を読むのに似た感覚だろうか?
松本正彦氏は、さいとうたかお、辰巳ヨシヒロ、佐藤まさあきなどとともに貸本から劇画を立ち上げた立役者の一人として有名だが、私は貸本ブームの時はまだ幼かったため知らなかった。後の商業誌でもあまり目立たなかった気がする。実は松本氏の作品をじっくりと読んだのは、この「劇画バカたち!!」』(青林工藝舎)がはじめてだと思う。
物語は、さいとうたかお、辰巳マサヒロ、松本正彦の三人トリオが、自分たちの作画スタイルに悩み、東京でのメジャーデビューにあこがれる姿を描いたもので、短編集「影」(日の丸文庫)などの出版をとおして当時の大阪の貸本出版業界の様子も描かれている。描かれている人たちは、総じてみな裕福そうでなく、むしろ貧乏そうである。たいへんな環境の中、先が暗い貸本マンガを描きながらもがいているようでもある。なんとなく暗い。まあ、マンガ家として売れるまでは、多かれ少なかれみな似たような生き方をしているのかもしれないが。。。
ところで、最近手塚賞を受賞した辰巳ヨシヒロ氏の「劇画漂流」をまんだらけZENBUで読んだ時もまったく同じような感じだった。まるで同じ作者が描いたようにも感じる。この感覚は何だろう?と思う。
結局、この作品に出てくるマンガ家達で、ちょっとだけ出てくる川崎のぼる、楳図かずおなどを除くと劇画家として一般の読者にも認知されたのは、さいとうたかお氏くらいだろう。時々劇画の大家と言われる、白戸三平、水木しげる、などは、当時、自分が「劇画」を描いているという意識はなかったのではないだろうか。たぶんもマンガを描いていると思っていたと思う。
それでは、辰巳や松本が作った劇画というものは一体何だったのだろうか?興味深いのは、巻末に掲載された、さいとうたかお氏の以下の話である。「本当は手塚治虫先生が「ストーリーマンガ」に代わる新しい言葉を考えてくれれば我々はスムーズに入っていけたんですよ。 -中略- 本来「劇画」は「マンガ」に対立したものではなくて、手塚先生の成し遂げてきたものを受け継いで、発展させるものだったわけですから。」劇画は、今も進化・曜変を続けているマンガの一時代の形態を表現した言葉というわけだ。
しかし、当時、松本、辰巳らにとっては、自分達の感性表現の産物を劇画として発表したわけで、当時の劇画は、もっと個人的趣向が色濃いローカルなものだったと思う。「劇画バカたち!!」と「劇画漂流」の雰囲気が似ているように思えたのは、これが彼らの「劇画」だからかもしれない。
今では、彼らの劇画もマンガの奔流にのみ込まれ、そのDNAはしっかり受け継がれていると思う。